「正義」とは何か?
去年から今年にかけて流れを振り返ると、今は、「正義」とは何か?という問いに対して、予定調和な答えがない時代だと僕は思うんです。劉暁波さんが受賞したノーベル平和賞に対して、中国政府はノーベル賞の権威を否定するような発言を繰り返し、最近では北京オリンピックのメインスタジアム「鳥の巣」の設計に関わった著名な芸術家の艾未未さんまで勾留してしまいました。
一方で、オバマ大統領が9.11の首謀者として名指ししていたビン・ラディンを国際法上疑問の残る方法で殺害した。またウィキリークスが政府の公電を公開して、「民主的」と言われていた国家にもいろいろとほの暗い機密があるということが分かってきた。日本でも、検察・裁判制度に対する不信が、今回収監されることになった堀江貴史さんのことも含め、人々のあいだで持たれてきています。
僕は今の時代は、ホッブスが『リヴァイアサン』の中で書いた「人々が人々に対して闘争し続ける」というリヴァイアサンの時代になっていると考えています。つまり社会契約が通用しないと言いますか、むき出しの実力がぶつかり合う時代になっている。このような時代にはたして「正義」はあるのか。
もしあったとしたらそれはどういう働きをするのか。また正義を押し付けることはいいのか。
こうした一連の出来事を含めて、正義について議論したい。
マイケル・サンデルはまさに「正義」について考えるすばらしい授業を行いました。そこで「答えがあるわけではなくて、正義に関して考えるプロセスが大事なんだ」と言いましたが、われわれもその正義に至るプロセスを味わえる議論ができればと思います。
正義という言葉には、「正しいことを、概念として、みんなで共有しましょう」というようなニュアンスを感じます。そのため、個人的には、言葉自体に漠然とした違和感を持っています。たぶん、個人個人の「正しい在り方」みたいなものがあるだけだと思います。
今週、サン・テグジュペリの『人間の土地』の最終章を読みなおし、「本然」について考えました。そのことと関連して、今回のテーマに取り組んでみたいと思います。
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本然という言葉で、サン・テグジュペリが表わしていることは、「細部でみると矛盾しているが、全体としては調和しているような生の状態」であるように読み取れます。例えば、自然の中の生き物たちは、互いに、食い、食われる関係にあるけれど、しかし、自然全体としてみると、まるで全てが調和しているように見えます。たぶん、このような考え方が、彼の思想の背景にあるようです。
このような考え方は、サン・テグジュペリが、彼の赴任地(モロッコ)で飼育していた羚羊(ガゼル)を描写するくだりによく表現されています。以下にその箇所を引用します。この文章に出てくるガゼルは、まだ目の開かない赤ちゃんのうちに人間によってもち去らさられ、飼いならされたものです。
…人は信じる、羚羊たちを、人目にふれない所で猛獣たちに食い殺されるあの悲惨な宿命から保護することができたと……。ところが、やがてその日が来る、その日、きみは、彼女たちがその小さな角で、砂漠の方角に向って、柵をしきりに押しているのを見いだすだろう。彼女たちは、磁力に引きつけられているようすだ。…
…彼女たちは羚羊になりきり、自分たちの踊りが踊りたいのだ。時速百三十キロのスピードの、まっしぐらな遁走が味わいたいのだ、ときどき砂漠が吹き上げる火炎でもよけるように、とっさの跳躍を交えたりして。金狼(ジャッカル)どもが待ち伏せしているくらい、なんのその、もし羚羊の本然が、恐怖を味わうことにあり、恐怖だけが、余儀なく自己を超越させ、最大の跳躍を成就させるものであるなら!ライオンどもが待ち伏せていようと、なんのその、もしも羚羊の本然が、白日のもと、猛獣の爪の一撃に引き裂かれて果てることにあるのなら!…
(『人間の土地』堀口大學訳)
ガゼルを飼いならした人間たちが、ガゼルの本然を正しく捉えられなかったように、人間はまた、自分自身の本然さえ、正しく捉えられなかったり、間違ったものを本然として錯誤してしまったりするのだと思います。
それでは、人間にとっての本然とは何なのか?
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ここまで考えたとき、茂木さんが著書で引用されていた「論語」の一節を思い出しました。
…子の曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。… 七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず。…
…さまざまな人生経験を積んで七十歳になった孔子は、自分の欲望をあえて押さえつけようとしなくても、そのままの自然体で生きていても社会と折り合えるようになったのです。もし、孔子が本当にそのような境地に達していたとすれば、正真正銘の聖人だといえるかもしれません。…
(『「読む・書く・話す」脳活用術』)
僕は、この境地に向って自分を陶冶することが「正義」を見出すことに繋がるかもしれないと思います。たぶん重要なことは、自分が本然(≒正義?)を生きているか、そうでないのかを、瞬間瞬間に知覚する能力を研ぎ澄ませていくことです。
マイケル・サンデルが「プロセスが大事」と言ったのは、正義を議論する中で、正義に対する嗅覚が鍛えられるのだという認識があったからではないでしょうか。
一つ具体的な方策として提案できることとしては、自分の感覚に注視しながら、様々なことを経験することは有効なのかもしれません。もし、ある瞬間、自分の本然であるものと出会い、それを体験すれば、それ以降はその感覚の記憶を手掛かりに、より強固に本然と結びついていくことができるかもしれません。
聖人というのは、本質的な観点から無用な物を見抜いて、その一切をそぎ落とし、ある意味で自然に帰っていくような人なのかもしれませんね。
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今回のビン・ラディン殺しが正しいことであったかどうかは、殺害に関与した人間一人ひとりが、自分の本性に照らして判断するしかないと思います。人にとっての正義を、他人が判断できるかどうかは、大いに怪しいと思います。
困難は、それが正しい行いであるかどうかは、本人だからといって、必ずしも正しく認識できないという点です。正義の感覚器官が成熟していなければ、判断などそもそもできないでしょう。行為の当事者が知覚できないとしたら、答えがそもそも存在しないということになるのかもしれませんね。
個人的には本然が「殺害」というのは信じたくないですが。