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「正義」とは何か?

「正義の味方」につなげて、次回のお題は「『正義』とは何か?」にしたいと思います。
去年から今年にかけて流れを振り返ると、今は、「正義」とは何か?という問いに対して、予定調和な答えがない時代だと僕は思うんです。劉暁波さんが受賞したノーベル平和賞に対して、中国政府はノーベル賞の権威を否定するような発言を繰り返し、最近では北京オリンピックのメインスタジアム「鳥の巣」の設計に関わった著名な芸術家の艾未未さんまで勾留してしまいました。
一方で、オバマ大統領が9.11の首謀者として名指ししていたビン・ラディンを国際法上疑問の残る方法で殺害した。またウィキリークスが政府の公電を公開して、「民主的」と言われていた国家にもいろいろとほの暗い機密があるということが分かってきた。日本でも、検察・裁判制度に対する不信が、今回収監されることになった堀江貴史さんのことも含め、人々のあいだで持たれてきています。

僕は今の時代は、ホッブスが『リヴァイアサン』の中で書いた「人々が人々に対して闘争し続ける」というリヴァイアサンの時代になっていると考えています。つまり社会契約が通用しないと言いますか、むき出しの実力がぶつかり合う時代になっている。このような時代にはたして「正義」はあるのか。
もしあったとしたらそれはどういう働きをするのか。また正義を押し付けることはいいのか。 

こうした一連の出来事を含めて、正義について議論したい。

マイケル・サンデルはまさに「正義」について考えるすばらしい授業を行いました。そこで「答えがあるわけではなくて、正義に関して考えるプロセスが大事なんだ」と言いましたが、われわれもその正義に至るプロセスを味わえる議論ができればと思います。

NO.15   trasque 2011/05/20 13:49:44 合計 0pt.

私も自分なりにchigusaotsukiさんの英語を翻訳してみました。
英語の能力はほとんど無いのですがとても良い経験になりました。
訳が間違っていなければ「衝突をする前に、それに変わる方法を、私達は発見できるはずだ」という点について私も強く同意します。その方法を探し続けようとする「意地」とも言える思いは大事にしなければと思うのです。
英語での返答をしたいと思ったのですが、力不足でした。申し訳ないです。

またyamatoさんの「共存」にも、正義を考える上では外せない言葉ではないかと思い、同意します。
ただ、どうしても一言では片付けられないとも悩みます。今の社会を構成している「競争原理」は一面でとても良い意義を持っています。全員が与えられた平等を継続していく(丁度、極端な共産主義の)ような社会が共存と言えるのだろうか、と考えてしまうのです。
共産主義を批判するという話題を持ち込む訳ではないのですが、共存は「まず自分がしっかり立ち上がること」が前提でもあるように思います。人が生きる上では、様々な自由意志がありますし、それらをどう取捨選択していくのかという自由もあります。
のっぴきならぬ状況で選択できない不自由の中でも、お互いの助力の中で生きながら自由を交流させるのが共存なのかもしれません。ですから、社会で「上を目指す」事は必要だと思うのです。
仕事で良い成績を目指し、所得を増やしていく。自分の能力を磨き、ある分野のトップを目指す。これは同時に「誰かの犠牲」というと大げさかもしれませんが、そういったものが必ず出てくるはずです。
では、極端な営利主義と、上を目指す事への線引きはどこにあるのでしょうか。どこまでが「共存」であり、どこからが「戦争」なのか。そういう見極めにくいものだと思うのです。

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話は変わりますが、正義を考えている中で「一旦、等身大の、現実の自分」を外さずに考えてみようと思いました。正義を考え出すのは人間であって、人間の社会の中に正義が適用されると思ったからです。人間の、現実的・物質的な能力の限界を超えた所に求めても、それは悪い意味で夢物語に過ぎないのではないかと思ったのです。
食事・時間・からだ…… と生きていく上で最低限どうしても必要なものがありますが、こういった「根っこ」の部分から出てくるメッセージといいますか、欲求といいますか、それを外さずに見てみるとどうなのだろう、と。
「ハラ減った!」っていう素直な欲求と「正義」がどこか繋がるような気がします。そういう本能や野生のような欲求は、ともすれば「思想を邪魔するモノ」として扱われてしまいがちだと思います。けれど、食欲のような「からだが発するメッセージ」を、一旦全て受け入れる視点から見えてくるものがあるように思うのです。
場合によってそういった欲求は他人への迷惑となる事もあります。一旦は「生じてしまう」のが本音・本心ですから、それすらもまずは受け入れてしまおう、と。それもまた自分であって、人間であるのなら一度は自虐し、嫌悪する事があっても、だからこそしっかりと愛せるようになるのではないかと思います。
そうした「受け入れ」ができるから、人間はその次の段階として「制御」できるのだと思うのです。それも、成長するにつれてより上手に、多様性を拡げていけます。自分を克服していけるのだと思います。
人間は誰しもが平等ではありません。病、資産、所属で大きく変わるのが現実だからです。平等でないという「等身大の現実」受け入れるかどうかは、ひとつ大きな要素ではないでしょうか。
ただ、平等ではなくても「人間としての根本」は大きく変わらないと私は信じています。「受け入れ」も「制御、成長」も、誰もが可能だと思うのです。


更に話は変わってしまいますが、もし、複数の子供達を教育する事になった時、彼等の可能性を疑う事は無いのではないかと思います。
様々な障害や病などでハンデを背負う子が居たとしても、彼等には全て未来への可能性が沢山あるのだという事は、多くの人が信じるところでしょう。
彼等は大きく変化し、成長する「からだ」と「いのち」を持っているからです。だからこそ子供は宝であって、大人が全力で取り組むべき相手だと思います。

かといって私達大人(つまり人間全体)は、もう変化できなくなってしまったのかと言えば、決してそうではないはずです。「脳は死ぬまで成長できる」とも言われているように、どんな人であれその可能性は残されているのだと私は考えています。
ですので、究極的に言えば上記の理由で私は「死刑反対」と言わざるを得ないのです。可能性を断ち切ってしまう行為だからです。今回のビンラディン殺害のニュースも、どこかでこの事を考えていました。
どんな大善人にも大悪党の心が存在し、どんな大悪党にも大善人の心は存在していると思うのです。 「甘い!」と言われてしまうでしょうか……

個人的な思いになってしまいますが、ここまで考えたときに「人間というものを上から下まで受け入れる事」と「人間の変化を徹底的に信じ抜く事」が私にとっての正義の指標ではないかと思いました。
これを仮に正義と置いて、私がどう「実践」するのか。今生きている生活圏内で実践できなければ正義は嘘になるとも思います。
関わる人の「変化を徹底的に信じ抜く事」は、色々なやりとりはあっても「最終的にはその人を徹底的に敬う事」だと思います。最大級に尊敬し続ける事だと思います。
その為にはひとりひとりの対話を真剣にする必要があります。(もちろん遊んではいけないとは思いませんし、真剣だからこそ「切る」事もあるでしょう)自分の最大級の誠実さはどうあるべきなのか、自問自答の連続となります。


結局「正義とはこうすれば良い」という明確な答えは出てきませんでした。上記の指標を基本として、限りある時間を目一杯使ってどれだけ本気でいられるか。どれだけ考え、動き続けていられるか。そしてそれを近しい友人に伝播し、実践していけるか。この流れの中に正義があるような気がします。
他人を尊敬し抜く事と自分を高めようとする事は両輪のように思えます。私は、今回のビンラディン殺害のニュース、福島原発と東京電力関連といった事については、もっと若い人達がガンガン身近な人同士で話をして行くようになれば良いなと思っています。
こういったことはkabutotigerさんの仰る「戦う事」の一つに入るのではないかと思いますが、どうでしょうか。
対話の中で「そんなバカな考え方してるのか」と指摘される事もたくさんあると思うのですが、そういう意見を色んな人とぶつけていくのが当たり前!みたいな風潮に、少なくとも若者の間だけでもなってほしいなと思います。
私自身もTwitterで「この考え方は顰蹙を買ってしまうのか」と反省するような場面がたくさんあり、勉強になっています。そうやって、人の中に飛び込んで行こうとする潮流を作る事は一つの「ブレイクスルー」になり得ると思います。それも一つの正義かなと思う訳です。