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「正義」とは何か?

「正義の味方」につなげて、次回のお題は「『正義』とは何か?」にしたいと思います。
去年から今年にかけて流れを振り返ると、今は、「正義」とは何か?という問いに対して、予定調和な答えがない時代だと僕は思うんです。劉暁波さんが受賞したノーベル平和賞に対して、中国政府はノーベル賞の権威を否定するような発言を繰り返し、最近では北京オリンピックのメインスタジアム「鳥の巣」の設計に関わった著名な芸術家の艾未未さんまで勾留してしまいました。
一方で、オバマ大統領が9.11の首謀者として名指ししていたビン・ラディンを国際法上疑問の残る方法で殺害した。またウィキリークスが政府の公電を公開して、「民主的」と言われていた国家にもいろいろとほの暗い機密があるということが分かってきた。日本でも、検察・裁判制度に対する不信が、今回収監されることになった堀江貴史さんのことも含め、人々のあいだで持たれてきています。

僕は今の時代は、ホッブスが『リヴァイアサン』の中で書いた「人々が人々に対して闘争し続ける」というリヴァイアサンの時代になっていると考えています。つまり社会契約が通用しないと言いますか、むき出しの実力がぶつかり合う時代になっている。このような時代にはたして「正義」はあるのか。
もしあったとしたらそれはどういう働きをするのか。また正義を押し付けることはいいのか。 

こうした一連の出来事を含めて、正義について議論したい。

マイケル・サンデルはまさに「正義」について考えるすばらしい授業を行いました。そこで「答えがあるわけではなくて、正義に関して考えるプロセスが大事なんだ」と言いましたが、われわれもその正義に至るプロセスを味わえる議論ができればと思います。

NO.30   trasque 2011/05/31 13:41:23 合計 0pt.

LAMPRIGERAさん:
へりくだり過ぎてしまいましたね。面白いと言って頂いて光栄です。素直に嬉しく思います。書き込む時はどうしても文字量が多くなってしまい投稿確定ボタンを押すまでにとても躊躇しています。今回は書き終えた後、一杯お酒を煽って勢いを付けてから送信致しました(笑
Web上の場だからこそできる事です。個人的にこの議論が一つの会議室で行われていたのならば、私は黙ったまま終えているのかもしれないな、などと考えたりします。一つの壁を破る事、これも成長の一つだと感じます。
yamatoさんの仰るように、毎度毎度が訓練・鍛錬ですね。


電車の中で考えていた事なのですが、先日「地球規模の正義」「宇宙規模の正義」等と書き込みをしました。広い宇宙では星が一瞬のうちにして爆発してしまう現象があると言います。その星の寿命を迎えるといった様な事です。星1個どころか、銀河の規模でそういうことがあるとも聞きます。
遠くの宇宙で起こるそれらの現象を私達はどう捉えているでしょうか。自然の神秘、驚異、とは感じるもののそれが宇宙なのだ、と受け入れるしかないようにも思えます。
マンガ的な考えですが、もし地球に一振りの大きな隕石が到着するとなった時、そしてそれが地球を破壊するに十分な威力があるとした時、私達はどう考え、行動するのでしょうか。
遠くの宇宙では様々な場所で当たり前のように起こる(とされている)この現象そのものに「善悪」はおそらく無いでしょう。私は何か強大な意思が地球を滅ぼそうとするような風には考えません。遠くの星が一つ壊れる事を考えてそこに「善悪」を考える事もまた、ないのではないかと思います。
地球に住む私達人間は恐らく、全力で抵抗し、解決策を模索するのだと思います。中には諦めてしまったり、何か強大な意思を信じてビルの上で祈っていたりするのかもしれません。(映画の見すぎでしょうか)

地球に隕石が当り、滅ぼうとしている。 遠くの星に隕石が当り、滅ぼうとしている。
ここに大きな違いはありません。あるのは私達が地球に住んでいるという事実です。
私は細かくは断定できませんが、この場合、全力で地球を守ろうと動く人たちが正義ではないかなと思います。その中では意見(や利害)の対立で混乱が生じてしまうかもしれません。しかし、ただ星が破壊されるのを受け入れてしまうよりは、より正義に近いものだと思います。
だから正義は、宇宙にあるという訳でもないのだなと思うのです。
あくまでも私達人間が生き抜いていく上で必死に貫こうとするものだと思います。

マイケル・サンデル教授の著書等はまだ一度も読んでいないのですが、列車と作業員の問題を耳にした事があります。星の事についても、列車の問題についても、ピタッとハマる答えはありません。列車のスイッチをどちらに作動させるかという選択肢しか無いという一人の作業員に全てが委ねられているのだと思いますが、その作業員がどれだけ「必死」だったのか。そういったことが正義なのかなあと思います。
物事の問題が「最大限に良い」とされる方向に行く為には、その「必死に行動する人」の能力が求められると思います。知識・技量・機転といったレベルが高いほど、取れる選択肢が拡がるからです。
太古の人間達では隕石をただ受け入れるしかなかったとして、現代の私達ならまだ何か対応出来そうな気がします。そうやって科学や英知が高まるからこそ取れる選択肢は「最大限の良い結果」を引き上げると思います。
yamatoさんの仰る「共存の限界を維持拡大」する事に、繋がるでしょうか。

だので、一人が何か能力を高めようとする事は常に「最大限の良い結果」に近づける可能性を持つと考えます。それが結果としてどのようなプロセスで作用するかは誰も証明できませんが。そう考えると、勉強や訓練一つとっても「楽しいもの」に思えるような気がします。