「正義」とは何か?
去年から今年にかけて流れを振り返ると、今は、「正義」とは何か?という問いに対して、予定調和な答えがない時代だと僕は思うんです。劉暁波さんが受賞したノーベル平和賞に対して、中国政府はノーベル賞の権威を否定するような発言を繰り返し、最近では北京オリンピックのメインスタジアム「鳥の巣」の設計に関わった著名な芸術家の艾未未さんまで勾留してしまいました。
一方で、オバマ大統領が9.11の首謀者として名指ししていたビン・ラディンを国際法上疑問の残る方法で殺害した。またウィキリークスが政府の公電を公開して、「民主的」と言われていた国家にもいろいろとほの暗い機密があるということが分かってきた。日本でも、検察・裁判制度に対する不信が、今回収監されることになった堀江貴史さんのことも含め、人々のあいだで持たれてきています。
僕は今の時代は、ホッブスが『リヴァイアサン』の中で書いた「人々が人々に対して闘争し続ける」というリヴァイアサンの時代になっていると考えています。つまり社会契約が通用しないと言いますか、むき出しの実力がぶつかり合う時代になっている。このような時代にはたして「正義」はあるのか。
もしあったとしたらそれはどういう働きをするのか。また正義を押し付けることはいいのか。
こうした一連の出来事を含めて、正義について議論したい。
マイケル・サンデルはまさに「正義」について考えるすばらしい授業を行いました。そこで「答えがあるわけではなくて、正義に関して考えるプロセスが大事なんだ」と言いましたが、われわれもその正義に至るプロセスを味わえる議論ができればと思います。
正義について、趣旨が大きく変わるかも知れませんが、先日のサッカーのヨーロッパチャンピオンズリーグ決勝の対戦を見ていて、この議題について考えました。
結果として、バルセロナが3-1で勝ちました。
ただ、結果として、という点が大切なのかな、と思います。
マンチェスターユナイテッドのサッカーが“間違っていた”訳ではないのです。
また、決勝に残った2チーム以外のチームの戦い方が“間違っていた”わけではないのです。
そもそもが競技の中に答えが無いのです。
結果を残した存在だけが答えだという意見もありますし、良くわかります。
しかし、一回ぽっきりで何がわかるのでしょうか?
それは我々人間の人生においてもそうで、“答え”は無いですよね。
一人ひとりに“答え”に近いものがあるものの、その答えは最終的に幕を閉じるまでわかりません。
現在のバルセロナは唯一無二のチームである。
最高のサッカーを見せている。
云々…
言われてますが、それだけではサッカーという競技自体、衰退してしまいます。
それ以外の存在があり、バルセロナが絶対的な存在で無い事がサッカーという競技を高めていく事に繋がっているのだと思います。
正義の味方も、敵役である“相手”がいるから、存在価値があり、より一層“強く”なるんだな、と。
つまり、相手になる存在同士がある一定の“形”を持っているから、それらをぶつけ合う事で、存在意義を確かめる事に“正義”があるように思うのです。
何だかうまくいえないのですが、根底にある、どうしたら自らの形、つまり“生きがい”になるのか、という「点」が“正義”なのかな、と。
世界の中でも最高のレベルでしのぎを削るサッカーを見ていて、感じた正義についての意見でした。
うまくまとめられずに申し訳ございません。