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「正義」とは何か?

「正義の味方」につなげて、次回のお題は「『正義』とは何か?」にしたいと思います。
去年から今年にかけて流れを振り返ると、今は、「正義」とは何か?という問いに対して、予定調和な答えがない時代だと僕は思うんです。劉暁波さんが受賞したノーベル平和賞に対して、中国政府はノーベル賞の権威を否定するような発言を繰り返し、最近では北京オリンピックのメインスタジアム「鳥の巣」の設計に関わった著名な芸術家の艾未未さんまで勾留してしまいました。
一方で、オバマ大統領が9.11の首謀者として名指ししていたビン・ラディンを国際法上疑問の残る方法で殺害した。またウィキリークスが政府の公電を公開して、「民主的」と言われていた国家にもいろいろとほの暗い機密があるということが分かってきた。日本でも、検察・裁判制度に対する不信が、今回収監されることになった堀江貴史さんのことも含め、人々のあいだで持たれてきています。

僕は今の時代は、ホッブスが『リヴァイアサン』の中で書いた「人々が人々に対して闘争し続ける」というリヴァイアサンの時代になっていると考えています。つまり社会契約が通用しないと言いますか、むき出しの実力がぶつかり合う時代になっている。このような時代にはたして「正義」はあるのか。
もしあったとしたらそれはどういう働きをするのか。また正義を押し付けることはいいのか。 

こうした一連の出来事を含めて、正義について議論したい。

マイケル・サンデルはまさに「正義」について考えるすばらしい授業を行いました。そこで「答えがあるわけではなくて、正義に関して考えるプロセスが大事なんだ」と言いましたが、われわれもその正義に至るプロセスを味わえる議論ができればと思います。

NO.40   trasque 2011/06/03 18:04:50 合計 0pt.

orcamieさん
インドの方とのお付き合いはとても素敵ですね。そのような縁は中々できませんから羨ましくも思います。
実は私はある特定難病疾患を患っています。五年前、それによって大手術をし大学を中退。丁度実家も借金を押し付けられるような形になり、医療費も重なって、妹の進学を諦めて貰ったりと散々な目が重なりました。
現在は問題なく働けておりまして、実家も地道に幾つかの借金を終わらせ、未だ苦しいながらもひとつの笑い話として扱えるようになりました。
ご友人の「レベルの低い所に合わせたくはない」と言われる気持ちはなんとなく分かるような気がします。入院する時には既に大学を諦める旨を両親からされまして、この先の就職や、自分の将来がダメになったようで「ドロップアウト」したかのように感じました。
病気の通告そのものはたいしてショックではありませんでしたが、ベッドの上で一体自分はなんの為にこれまでを生きてきたのだろうと考えました。
その時に、地元地域の方々、友人、親族が何度もお見舞いに来てくれたり、書物を読んだりする中で幾つかの言葉を覚えました。
「夜明け前が最も闇が深い」だとか「やまない雨はないのだ」と言った、ある種使い古され、既に私も知る言葉でしたが、そういうものを引き出しながら励まして下さる方々の話を聞くにつれて「俺は大丈夫だ!」と思えるようになったのです。
特定難病疾患ですから、病の根本原因が不明で未だに闘病しながらの生活ですが、職場などで「あまり悩みがなさそう、気楽そうでいいね」とか「結構、給料貰ってるんでしょ?」だなんて言われると結構嬉しくなってしまいます。
実際は毎日の食事や薬などで悩みつつ、ギリギリの給料で嫌になる事もありますが、その心の底にある「俺は大丈夫だ!」という心の軸のようなもののお陰で、実際以上に元気に見てもらえてるのかな、と思うからです。
何と言いますか「心の持ち方」で、特定疾患だろうが、人が羨む元気さが持てるんだぞ!という自信になっています。
乙武さんのような方のお話を伺うと、よりそれが確信になるようにも思うのです。

これが「レベルの低いこと」かどうかはわかりません。高低深浅の問題ではないかもしれません。
ただ、こういった病から得られたものには違いないと感じています。もし、順風満帆に進学、就職していたら「俺は大丈夫だ!」という軸を得られないままだったのではないか、と逆に心配になったりするのです。

この経験から、私は先の書き込みで「この先何が起ころうと(何かが起こることは生きている限り自明なのだから)乗り越えられると思える心」が大事ではないかと、よりリアルだとした次第です。
仰る「個人が誇れる何か」とは、こういった自分との闘争で手に入れたそれぞれのものの中にあるのではないかと思います。その為には、今まさに足をつけているこの国土が必要ですし、お医者様、科学技術、言葉を残した偉人、伝える友人、励ます家族と、様々なものがどうしても総合されていきます。

waterlilyさんの疑問である「なぜ全体(共存)を取ろうとするのか」という一つの返答にはならないでしょうか。
教育や思想によるものもありますが、この世に生を受けた段階で、結局は自分が生きる上では色んなものが必要で、単体ではあり得ないことを経験から知っているからではないでしょうか。
私は愚かにも、この病になってしばらくしてようやくこう考えるようになりました。(医者は治してくれて当たり前、という風にそっけなく考えてもいました)意外に、気付きにくい事なのかもしれません。

とは言え、これを必要以上に「重く」捉える必要はないように思います。等身大のからだがありますから、できない時はできない、休む時は休む、そういう事も大事なはずです。
ニーチェはツァラトゥストラの中で「重さの霊を捨てよ」と叫びました。ツァラトゥストラは「権威的なキリスト教への警鐘」のように私は読みました。「幸せになるために宗教を持つ」のだから「人間の為の宗教」であるはずのものが、いつしか教条・権威が優先され信徒が「宗教のための人間」になってしまった状況。ここに「神は死んだ」と叫ぶツァラトゥストラの思いがあるように感じます。

目的の為に他人の命を犠牲にする事を厭わない。これらの考えも、結論までには色々と厳格な相談、悩みを経た上での事ではないかと思います。
これらの考えを持つ人達との対話はとても難しいものですが、これはある種、異なる宗教同士の対話とも言えると思います。

現代において、その対話が武力的なものしかないとは私は考えません。
しかし、その対話の実現の為には広範な学識と「相手側への理解・受容」をまず持たねばならないという意識は必要と思います。
ですから、とても時間がかかると思いますし、色んな犠牲は出て来てしまうのかなとも思います。


私は病を通して自分の正義がひとつ深められたかな?と感じています。こうやって、個人の具体的な悩みを語る事は必要なのかもしれません。
fruitsさんのように具体的な事を考えるのが正義、という面は外してはならないのだと思います。私はどうも考える事ばかりが先行して実践に結びつかず、なんだか観念ばかりこねくり回しがちですので、そこを反省する思いです。