「英語」について考えてみよう
ません。それはそれで一つの見識だと思います。日本人にとって、英語は
「翻訳するもの」でした。外国の文化・学問を輸入して、それを翻訳した
のち、国内に発信する。これが大学の大きな役割でしたから。
ところが今は、学問にしても、ビジネスにしても、スピードが速まってい
て、そうした手順を踏んでいては世界に追いつけなくなっています。英語
で読んで、英語で理解し、英語で発信する。こうした直接性が求められる
時代になってきた。
英語の上手下手は重要な問題ではありません。内容のあることを英語で
発信する。それこそが大事なことなのです。そういう意味で前回の掲示板は
本当に素晴らしかったと思います。
こうした時代において、みなさんは英語をどのようなものとして捉えてい
るのか。あるいは、もしあなたが英語について苦手意識があるとしたら、
どこに苦しんでいるのか。どんなきっかけで苦手になってしまったのか。
体験談でも思想的なものでもよいので、英語について今考えていることを
書きこんでいただいて、議論につなげていただきたいと思います。
はじめまして。私は絵を描いたり現代アート系の活動を主にしているというか、
しようとしているのですが、そこでは英語を翻訳的に使うことではなく、
直接的に使うことが必須だと感じています。
私自身の英語の能力は、簡単な文章を読み書きできる程度です。
大学入試の時に一所懸命勉強して、センター試験では英語は
180点をとりましたが、英語でコミュニケーションはできるように
なりませんでした。私の勉強方法が受験用だったことと、
大学入学後は全く英語の学習をやめてしまったからですが…もったいない。。
アートをやっていると、日本は本当に自分の意思を伝えることが
苦手な国だと感じることが多いです。個人の問題ではなく、国としてそういう雰囲気が
あらゆる面でつくりあげられてしまっている感があります。
例えば4人で話していて1人が海外の方で、英語で英語っぽく会話をしていたとしても、
その海外の方が退室した瞬間に空気の読み合いが始まるというか。
正直、個人の力でそこは絶対に変わらないだろうと思うほどですし、
震災があって原発の事故があってさまざまな議論がなされていますが、
だからといってそういったコミュニケーションの面での変化というものは
あまり期待できないように思います。
受験時代の勉強については自分の方法に後悔する面もありますが、
やはり中学高校の指導方法にも問題があると思います。
やっぱりいかに翻訳するか、が指導の要点なのだと感じています。
英語でのコミュニケーションとは、日本とは全く違うカタチの文化を
通したコミュニケーションなのに、そのことを伝えようとせずに、
外国語の文章をひたすら翻訳して内にこもって勉強するスタイルで
指導されているようです。
同じようなことは、色々な場面で見られると思います。
例えば私は高校、大学と西洋画科でしたが、そこでも文化としての
ARTを学ぶのではなく、教養としての翻訳されたアートを
ねじくれたカタチで指導されていました。
そこでは熱心に現実的な内容を指導されるわけでもなく、
自由な発想を許すわけでもなく、曖昧でなんとも
創造的でない空気が支配していました。。。
現代アートなんてわけのわからないものだと思われるのが普通だと
思います。だからこそあらゆる手段でもって伝えることが大切だと
考えていますが、そこを抑圧する雰囲気が非常に強いと感じます。
そして作り手がそれをはねのこることはあっても、鑑賞者がそれをはねの
けることは非常に難しい。
英語を直接的に使うこととは、もっと直接的なコミュニケーション。
建設的な議論を生む方法ということだと思います。
そういう場がもっと広く共有されることは個人が個人として意見を主張することを
育てる面でとても重要だと思います。
そしてそういう場面は今後より重要性を増してゆくのではないでしょうか?