学びの場はどうあるべきか
適塾で勉強した福澤諭吉は自伝のなかで「枕を使って寝たことがない」と書いています。これらの私塾には、そうした猛勉強が行われる土壌があったわけです。塾生同士がお互いに刺激し合って、切磋琢磨する学びの場。
規模は関係ないと思います。適塾でも1000人程度、松下村塾などは数十人程度の塾生しかいなかったようですが、その中から高杉晋作や久坂玄瑞といった幕末の志士たちが出てきました。特に現代にはインターネットがあります。
ですから、このメルマガを購読してくださっている人たちが集まれば、十分に適塾も松下村塾も作れてしまいますし、日本を変えることができる。
このメルマガそして掲示板はすでに有効な「学びの場」になり始めていますが、さらなる発展を目指すために、あるべき「学びの場」の姿について考えてみませんか。日本の教育全体に対するご意見でも結構ですし、このメルマガや掲示板をよりよく運営するためのアイデアを出していただいても結構です。例えば、適塾では「ポイントシステム」を採用していて、良い成績を取ると席次が上がっていったそうです。切磋琢磨の仕方にはいろいろな形がありえます。ぜひ考えてみてください。もし良いアイデアがあれば、さっそく採用してみたいと思います。
日本の教育全体を見渡してみて、最も根幹にある問題は、学問や教育機関に入ることに関して手段と目的を間違って教えられていることだ。
まず1つ目、学生の多くは教育機関に入ることが目的であると教育を受けていることだ。
「あなたは東大に入って、大企業に勤めて、幸せな人生を歩むのよ。」と諭す両親。
「君は、成績が学年でもトップクラスなのだから、東大に入りなさい。」と諭す進路担当教師。
「東大合格500人!」と宣伝する予備校。
本来であれば、学校は学ぶ場である手段であり、そこで出会う先生や友人、先輩などと切磋琢磨して議論したりすることで、自分の思考を構築したり、化学反応を起こし新たな考えを生み出す場である。しかし、多くの学生が上記の教師や両親の教えにより、偏差値の高い学校、私立よりも国立大学、東大理1よりも東大理3、などのようにただ単に教育機関に入ることが目的となってしまっている。
教育機関に入ることが目的化してしまっていると、例えば大学に入ったことで目標の8割が達成されてしまっているので、大学という学びの場で、何を目標にどんな分野に興味を持って勉強していけばよいのかわからず、、また学問に対する情熱や茂木氏のいう「インセイン(狂気)」がないため、学びの場を十分に活かすことができなくなってしまう。
進学実績の高い高校や、偏差値の高い大学などは、ある一定以上の学力を持った学生が集まっているため、より高いレベルで切磋琢磨して自分自身を研鑽できる手段の場であるということを認識することが重要であると考える。
2つ目は、学問を学ぶことが目的となってしまっていることだ。私の中学、高校時代を振り返ってみても、英語の文法を学ぶこと、数学の微分方程式を学ぶこと、物理の力学を学ぶこと、などなど1つ1つの単位でしか教師は教えないし、それを覚えること学ぶことが目的となってしまっていた。本来であれば、英語、数学、物理、生物といったものは、ある問題を解くために必要な道具であり、有機的につながっていないといけない。
それらを切り離して、一個の単位で目的化して教えられたため、授業が簡素なものとなり、授業という学びの場にはワクワクやドキドキはなかった。
大学に入ってから、学問が手段であり有機的につながっていることに自分自身で気づいた(遅いっ!)。神経科学に興味を持ち、それを勉強するには英語で論文が読めないといけないし、細胞や分子の働きなどの生物、物理の知識、数学の知識が必要だということを知った。神経科学の分野にはこんな問題が残されていることを知ってワクワクドキドキしたのを今でも覚えている。
以上のように、私の経験から、基本的なことであるが学びの場というのは手段であり、目的化してはいけないことだ。
竹内 健太