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学びの場はどうあるべきか

松下村塾や適塾といった「私塾」のあり方を見直すべき時期にあると思います。現代では「塾」というと、大学受験のための予備校の印象しかありませんが、幕末という激動の時代に多数の人材を輩出した「学びの場」は、はたしてどのような場所であったのか。

適塾で勉強した福澤諭吉は自伝のなかで「枕を使って寝たことがない」と書いています。これらの私塾には、そうした猛勉強が行われる土壌があったわけです。塾生同士がお互いに刺激し合って、切磋琢磨する学びの場。

規模は関係ないと思います。適塾でも1000人程度、松下村塾などは数十人程度の塾生しかいなかったようですが、その中から高杉晋作や久坂玄瑞といった幕末の志士たちが出てきました。特に現代にはインターネットがあります。

ですから、このメルマガを購読してくださっている人たちが集まれば、十分に適塾も松下村塾も作れてしまいますし、日本を変えることができる。

このメルマガそして掲示板はすでに有効な「学びの場」になり始めていますが、さらなる発展を目指すために、あるべき「学びの場」の姿について考えてみませんか。日本の教育全体に対するご意見でも結構ですし、このメルマガや掲示板をよりよく運営するためのアイデアを出していただいても結構です。例えば、適塾では「ポイントシステム」を採用していて、良い成績を取ると席次が上がっていったそうです。切磋琢磨の仕方にはいろいろな形がありえます。ぜひ考えてみてください。もし良いアイデアがあれば、さっそく採用してみたいと思います。

NO.13   masami 2011/06/25 06:37:10 合計 0pt.

「迷った人にだけ、神は道を示すのだ」

この言葉、このフォームを開こうとしたら、目に入った名越康文さんの『愛の錬金術』の紹介文の中にありました。
 
NO.11 orcamie さんの 「迷う・さまよう」ということはすごくいい事だと思います。
と通じるている、と思いました。

皆さんにとって、学ぶとは、どういうことなのかな?何を学びたいのかな?とぼんやり考えていました。

NO.10 の thnkks0304 さんの
まず1つ目、学生の多くは教育機関に入ることが目的であると教育を受けていることだ。
2つ目は、学問を学ぶことが目的となってしまっていることだ。
私の経験から、基本的なことであるが学びの場というのは手段であり、目的化してはいけないことだ。

明快な文章に、そうかぁ、と頷いていました。
NO.12 LAMPRIGERA さんのような具体策も、すごいな、と読ませていただきました。

そして、というか、にもかかわらず、不明快な私が感じたことを書いてみます。

私はつい最近、茂木さんがよく書かれている、”大学(学問?)のたこつぼ化”を、あ、こういうことなのね、と実感しました。

ユングの『分析心理学』を読んで、ユングは生まれてくるのが100年早かった、と言われる理由がわかったように思いました。
彼が今生きていたら、目を輝かせて脳科学者や、神経科学者たちと話をしただろうに、と想像しました。アインシュタインとも、何回か話をしたそうですからね。
意識とは?という疑問を持っている人たちが、それぞれの分野からの知見を持ち寄ったら、楽しいだろうな、と想像します。
そんな場は、あるのでしょうか?
これだけ情報が自由に行き交う時代なのに、そのような試みはなされているのでしょうか?
ひそかにどこかでなされていたら、楽しいだろうな、と思います。

私にとっての学びの場とはそのような場。

様々な人が、自分の関心事を語りつつ、それにこだわり続けるのではなく、普遍性を持った語りにつながっていく場。

でも、現実は、まだまだ、たこつぼ?

私にとって関心がある事のひとつは、特に、3月11日以降、強くなった思い。

なぜ私は生きている?

なぜ、あの震災で私は死なないで、ここに生きている?
被災地に住んでいなかったから、ということではなく、生き残ってしまったという罪悪感でもなく、平均寿命まであと〇十年あるから、確率的に生きていて当たり前というのでもなく。
いつだって、死は身近にあり、若くして亡くなる方もいられるのに、それでも生きているのは?

この答えは、人に教えられものではなく、自分が納得することなのだと思います。
そして、この問いを突き詰めれば、なぜ生まれてきた?に行きつくのかな、と思います。

私にとって、学ぶという行為の根底には、この問いが、常に横たわっているような気がします。
そしてどんな学問も、この世の森羅万象と無縁ではないのだから、その学びの根底に、この問いは横たわっているように思うのです。

そういう意味で、学ぶということに境界はなく、人は、何歳になっても、どんな人からも、どんな出来事からも学ぶことができる。

これが私の学びの基本です。

要するに、学びの場は、可能な限りオープンであって欲しい、あとは、あまりこだわらないかな。

瓢箪から駒、みたいなことにたくさん出会いたい、と思います。


つい最近 twitter の英語用アカウントを作り直しました。@masamimed です。できれば、いろいろな国の人のつぶやきをのぞいてみたいと思いながら、前回は、どうやって広げるかわからずにいました。今回も、まずは、Good morning だけでもいいか、と軽い気持ちでの再スタートです。日本語版は、@masamibean  です。こちらも、最初は各県の人のつぶやきを見てみたいな、外国にいる人も、と思いながら、地元の人が多く、つぶやきも愚痴になったり…。

思いと行いが裏腹。
学問の府を揶揄する資格はないのかもしれません。