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学びの場はどうあるべきか

松下村塾や適塾といった「私塾」のあり方を見直すべき時期にあると思います。現代では「塾」というと、大学受験のための予備校の印象しかありませんが、幕末という激動の時代に多数の人材を輩出した「学びの場」は、はたしてどのような場所であったのか。

適塾で勉強した福澤諭吉は自伝のなかで「枕を使って寝たことがない」と書いています。これらの私塾には、そうした猛勉強が行われる土壌があったわけです。塾生同士がお互いに刺激し合って、切磋琢磨する学びの場。

規模は関係ないと思います。適塾でも1000人程度、松下村塾などは数十人程度の塾生しかいなかったようですが、その中から高杉晋作や久坂玄瑞といった幕末の志士たちが出てきました。特に現代にはインターネットがあります。

ですから、このメルマガを購読してくださっている人たちが集まれば、十分に適塾も松下村塾も作れてしまいますし、日本を変えることができる。

このメルマガそして掲示板はすでに有効な「学びの場」になり始めていますが、さらなる発展を目指すために、あるべき「学びの場」の姿について考えてみませんか。日本の教育全体に対するご意見でも結構ですし、このメルマガや掲示板をよりよく運営するためのアイデアを出していただいても結構です。例えば、適塾では「ポイントシステム」を採用していて、良い成績を取ると席次が上がっていったそうです。切磋琢磨の仕方にはいろいろな形がありえます。ぜひ考えてみてください。もし良いアイデアがあれば、さっそく採用してみたいと思います。

NO.20   guheguhe18 2011/06/28 03:31:02 合計 0pt.

こんにちは。私は22歳で、絵描きやバンドや現代アートのような活動をしている者です。

学び とは何でしょうか。
私は、人間がその社会で生きていく上で、必要なスキルを身につけることであると考えます。
国語理科社会のような教養だけでなく、食べて寝て住む環境をつくる方法、人生という壁にぶち当たった時におおいに悩んで、それを解決する方法でもあります。

そこで、義務教育と、それ以外の学びについて
私の実体験から書かせていただきます。

・義務教育について

義務教育は小中とありますが、そこでは何を学ぶのでしょうか。
私自身は、常に外で遊んでいたために勉強した記憶はありません。
数学では3点をとったことがあります、、、。
今年大学を卒業したてなので、大学については記憶が割と鮮明にあるので
今時点と大学の教育から、義務教育についても関連させていきたいと思います。

大学は美大でしたので、少し特殊な環境であったであろうことは先に書いておきます。
大学で感じたことは、ほとんどの人が自分の考えを発表することが苦手だということ。
そして、議論やレポートのような文章を書くことが下手だということです。
これは日本の美術にも深く関係があると考えているのですが、
それはつまり、「思う」と「考える」が分けられていない、という点に集約されると考えています。

私たち日本人は、古くから おもふ ことに対して非常な関心をはらっていたのでしょう。
それは、俳句などの文化や、情緒を表現する美術作品にもよく表れています。
そして、日本語自体がオノマトペ的表現が豊富で、そういった情感を表現することを得意とする言語だと考えています。

対して英語ではどうでしょうか。
「思う」も「考える」も "think" ですよね。
私はそこまで英語に詳しくないので、日本語の「思う」に相当する
英語での表現が思いつきません。詳しい方がいらっしゃれば伺ってみたいです。
しかし、「思う」とはかなり抽象的というか哲学的ですらある単語だと思います。悪く言えば漠然としすぎている。
かなり詩的な表現で、自分の考えを表現する時には使い方に注意が必要な語のように感じます。

それらは、義務教育の時点で指摘されるべき点ではないでしょうか?
そして日本の義務教育では、思いを発表することに重きが置かれているとも感じます。
自分の考えを発表し、議論することを教育されない。
これは、茂木さんが仰っていました「同質化圧力」とも深く関係すると考えています。
同質化圧力が高い上に、考えを発表する訓練も、環境もない。
そこではもはや圧力を振り切って思いのたけを表現することに美意識を持っているように見えます。

(そういえば大学で、しきりに飲みゅにケーション的なことを勧められますが、あれの意味が僕にはわかりません。
 私は飲むのは好きですし、飲み会も大学時代はよくやったし、だいたい最後までいるタイプの人間ですが
 話し合いのために飲み会をセッティングするのはどうしてでしょう。少しならいいですが、
 酔っぱらってしまっては記憶もあいまいになるし、まともな話し合いにならない。。
 感情を出すことと、考えを発表することがごっちゃになってしまっている。
 こういうことも関係しているでしょう。)

学ぶことは複雑です。が、思いのたけをぶつけあうだけでは議論にならず、
考えを昇華することが困難です。これは、日本が抱えている問題の一つであると考えています。


・学外での学びについて

僕は小学生の頃、自然教室という活動に参加していました。
ボーイスカウトなどとも全然違うタイプで、山や川や海で合宿したり、家でゲームしたり。
日本の各地へ出向いて、田植えをしたり、その米で日本酒を造ったり。
伝統工芸の作家のじーさんばーさんのところへ行ったり、とにかく色々なかたちで
自然や社会と接点を持つような活動でした。
その先生は民俗学に詳しい方で、この前会った時に「世間師」という言葉を教えてもらいました。
世間師とは、ある疑問の回答を捜して若者が旅に出て、世間に答えを探すことでもあれば
そういった世の中をよく知った人のことでもある、というふうに私は解釈しました。
詳しくは宮本常一の"忘れられた日本人"を読むといいそうです。ちなみに私はまだ読んでいません、、。

そこで、私は昔色々なところへ連れていってもらっていたのは、こういうことだったのかな?
と今になって思いました。

大学では色々な人がいましたが、多くの人はこういう経験をしていないように感じました。
今では、世間師は大学だともその先生は言っていました。
自分の世話を焼いてくれる、社会に通じている大人と話し合える環境。
それにしては、あまり機能していないように感じます。

人間的な成長とは本当に色々あってなんとも言い難いですが、こういう経験が
私の人生には良い影響を与えてくれたと感じています。
色々書きたい話はありますがもうこんなに長くなってしまった…!
そろそろまとめに入りたいと思います。



・大学を卒業して、大人になるとはどういうことかふと考えた時があります。
 成人式というものが一応ありますが、あってないようなものですし。。
 私は経済的な自立を本当に意識した時、そして学内などの限定的なコミュニティーでない、
 広い社会への参加を意識した時なのかな、と考えました。
 そうすると、私は学部の3年の頃だったのかな、と思います。
 そこで、問題が一つあります。
 私は学び、教育に関して一つ重要なことは、自由な想像力をはばたかせることだと考えています。
 それは、モノづくりだけでなく、社会の構造や全ての創造に関わってきます。
 今の教育機関は、モラトリアム期間のための環境です。そこでは、そうした
 現実的な食う食わないの問題は棚上げして、自由に発想することができます。
 それらを大切に議論し育て、豊かな発想から社会を創り上げていくことが重要だと考えていますが、
 実際の教育現場ではどうでしょうか。そうした個人の自由な発想は尊重されるでしょうか?
 議論されるでしょうか?されないと思います。
 なぜなら、個人の意見を尊重 という言葉をよく目にしますが、それ以前の段階だと考えているからです。
 個人の意見を尊重するには、それをどう扱うかということが共有されていなければなりません。
 
 私は、そういった個人の豊かな想像力を伸ばすこと、それを議論して共有し、
 高めること、その方法を深めることが、学びの場には必要な事だと考えています。
 そこで今一番必要なことは、その個人の発想を受け止める土壌だと感じています。
 
 現実的に食う食わない。他人の評価などが気になりだした時に、想像力はしぼんでゆきます。
 そこから抜け出すには、自分の表現を疑わないことです。そのために、自分の思いだけでなく、
 考えを発表していくこと、それを受け入れる環境がとても大切だと考えています。
 繰り返しますが、自由な想像力から、物事を深く考えること。その考えを発表し、
 聞く側はそれを受け止めること。そしてそれを議論し、何らかの答えを出すこと。
 それらをサポートする環境をつくること。
  
 そういう基礎的なことが、義務教育含めた広く学びの場に必要なことだと考えています。
 
・この掲示板でできることは?
 ということを少し考えてみました。
 今回この文章を書くにあたって、「思う」と「考える」の使い方をなるべく
 実感に素直に使ってみました。普段、「思う」で済ませてしまうところも、
 「考える」と書くと、脳ミソの違う部分が働く気がして新鮮でした。
 この分野を伸ばしていくべきかな、と感じました。
 日本語は曖昧な表現が多い言語ですから、こういうところを
 気をつけつつ、日本語の文としてはちょっと妙ですが 考える という
 言葉をあえて使ってみるのも面白いかな、と思いました。

 あとは、自分の職種や年齢なんかも公開していくと、
 どういう環境にいる人なのかがわかって話し合いに幅が出るかもしれないとも思いました。
 これは個人の自由だし、逆に書きにくくなる場合もあるかもしれませんが。。
 試しに今回は文の一番上に書いてみました。

 あと、、、ここを見れる人が増えるといいのかもしれません。

 長々と失礼しました。