学びの場はどうあるべきか
適塾で勉強した福澤諭吉は自伝のなかで「枕を使って寝たことがない」と書いています。これらの私塾には、そうした猛勉強が行われる土壌があったわけです。塾生同士がお互いに刺激し合って、切磋琢磨する学びの場。
規模は関係ないと思います。適塾でも1000人程度、松下村塾などは数十人程度の塾生しかいなかったようですが、その中から高杉晋作や久坂玄瑞といった幕末の志士たちが出てきました。特に現代にはインターネットがあります。
ですから、このメルマガを購読してくださっている人たちが集まれば、十分に適塾も松下村塾も作れてしまいますし、日本を変えることができる。
このメルマガそして掲示板はすでに有効な「学びの場」になり始めていますが、さらなる発展を目指すために、あるべき「学びの場」の姿について考えてみませんか。日本の教育全体に対するご意見でも結構ですし、このメルマガや掲示板をよりよく運営するためのアイデアを出していただいても結構です。例えば、適塾では「ポイントシステム」を採用していて、良い成績を取ると席次が上がっていったそうです。切磋琢磨の仕方にはいろいろな形がありえます。ぜひ考えてみてください。もし良いアイデアがあれば、さっそく採用してみたいと思います。
No.10でも少し意見を述べましたが、付け加えさせていただきます。
学びの場は、思考の化学反応が起きる場であってほしいです。教師としての相手の言葉や行動によって、自分の頭の中で、何か新しい考えがひらめいたり、生き方が変わったりする。今まで自分の頭の中で、もんもんとしていて、うごめいていたものが、はっきりと「これだ!」とか「なるほど!」と答えがみつかる。
思考の化学反応は、一対一の場面で、お互いが協力し合って起こるものであってもいいし、一方だけに起こってもいい。また3人以上の人が集まって、意見を闘わせて新しい考えが生まれてもいいと思います。
私の今までの人生の中では、一対一の場面で、自分の頭の中だけで化学反応が起きていたことが多いです。本と向かい合っている場面でもそうですし、茂木氏の講演に行ったときは、茂木氏の意見によって今までくすぶっていたものが、はっきりと見えたりしました。茂木氏と私は、講演者と聴衆という一対一の一方通行の関係であり、私の頭の中だけで化学反応が起きていました。そういった関係であっても、学びの場であると思います。
この掲示板は、様々な考え方を持った人たちが、意見を出し合って、それらがぶつかり合って、新しい考え方が生まれたりする場であると思います。それはまさしく、異種格闘技戦のような場所。
そういった場にtrasqueさんがおっしゃるような「同志」が集まれば、なおさら激しい化学反応が起きると思います。生命科学者の上田泰乙氏の研修室では、数学、情報科学、生化学、医学、生物などそれぞれの分野で抜きんでた知識と技術を持った者が集まり、「生命を解明する」という目的のもと、意見を出し合って、研究を進めています。「生命を解明する」という目的を持った同志が集まり、新しい概念を構築していく、そういった研究室も、一種の学びの場であると思います。
一対一の一方の頭の中で起こる化学反応、双方によって起こる化学反応、集団となって起こる化学反応、それぞれのパターンの場面で、新しい考え方が生まれる場が学びの場ではないでしょうか。