学びの場はどうあるべきか
適塾で勉強した福澤諭吉は自伝のなかで「枕を使って寝たことがない」と書いています。これらの私塾には、そうした猛勉強が行われる土壌があったわけです。塾生同士がお互いに刺激し合って、切磋琢磨する学びの場。
規模は関係ないと思います。適塾でも1000人程度、松下村塾などは数十人程度の塾生しかいなかったようですが、その中から高杉晋作や久坂玄瑞といった幕末の志士たちが出てきました。特に現代にはインターネットがあります。
ですから、このメルマガを購読してくださっている人たちが集まれば、十分に適塾も松下村塾も作れてしまいますし、日本を変えることができる。
このメルマガそして掲示板はすでに有効な「学びの場」になり始めていますが、さらなる発展を目指すために、あるべき「学びの場」の姿について考えてみませんか。日本の教育全体に対するご意見でも結構ですし、このメルマガや掲示板をよりよく運営するためのアイデアを出していただいても結構です。例えば、適塾では「ポイントシステム」を採用していて、良い成績を取ると席次が上がっていったそうです。切磋琢磨の仕方にはいろいろな形がありえます。ぜひ考えてみてください。もし良いアイデアがあれば、さっそく採用してみたいと思います。
続けての投稿です。
No18の自分の投稿で 「理想の学びの場は No16のtrasqeさんのおっしゃるように「目的」をはっきりと定める事がかなりのウエイトを占めるということ賛成です。」とは言ったのですが 適塾の事を少し調べたら、『福沢諭吉は「目的なしの勉強」を提唱して 塾生は立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修行に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを目指した』とありました。
つまり個人で目的を持つ事は重要だけれど、ここでも 理解力・判断力などを育む『目的があって目的がない学び』を目指したらどうかなと思います。
そして、既に指摘されていますように「仲間」は大切だと思います。たとえ現実の世界で相対する側に立つことになったとしても同じ土壌で学んだということはたいへん意味のある事だと考えます。
NO.23 terurun の「飛びぬけている人をなぜ、育てないのか?」ということについてですが
他の国で行われている「飛び級」のような事が日本でなぜ実現できないかというとその是非を議論していると永遠に実現しないのではと私は考えています。日本では教育の機会の平等という事に対して偏見があるような気がします。皆に同じ質と量の教育を与える事が平等のような考え方が根強いのではないでしょうか。その是非を話し合うより賢く「飛び級」を実現したらいいのになあと思うのです。
小学校から全て「単位制」にする。例えば小学校6年生までに最低小6Aという内容までは全員終了することにして、さらに余力のある人は小6BとかCまでできるようにしておく。内容的には中学校に行ったら中1ABCとあり小学校で学んだ内容に合わせてそのクラスに行く。そして進度は科目別にする。こうすると比較的理解を得やすいのではないかなと考えました。
学びの場はどうあるべきかという本来のテーマについては 皆さんの投稿をよんで なるべく自由な場がいいと考えますが、今までの日本の教育のように偏差値やいい大学に入る事を優先するのではなく、理解力や判断力を養うこと、人間として人道的な考え方を基調としてもてるようなことを優先する学びの場が日本の学校で実現されればほんとうにうれしいと思いました。