天才とは何か
<天才とは何か>
今回の掲示板では、前回の掲示板No.23でterurunさんが話題にしてくれた「天才」について考えてほしいと思います。
最近、僕が大学入試の問題点についてツイートしたら、進学校のなかにも「模試が何点だった」とか、「偏差値がいくつだった」とか、そういうくだらないことを自慢しあうような人たちがいて、それに辟易していますというリプライを返してくれた人がいたんです。
「天才」というのは、試験の点数といった「量」的なモノサシでは測れない存在だと思います。「量」的なモノサシを超越していて、「質」的な飛躍がある。それが天才だと思うんです。日本の社会の不幸の一つは、「天才」という概念が成熟していないことじゃないかなとも思います。
時には偏っていますし、試験の成績が必ずしも良くなかったりもする。だけど今までの人類が見たこともないような風景を見せてくれる。天才というのは、そんな存在だと思います。
みなさんは天才をどういう存在だとお考えですか。それから、天才を育む環境や、天才の邪魔をしない社会というのは、どういうものだと思いますか。現在の日本の大学は天才を育むのに適した場ではないと僕は感じていますが、では具体的にはどういう改革が考えられるのか。僕は小学生の頃にアインシュタインの伝記を読んで、「世の中でアインシュタインが一番偉い人だ」と思い、物理学者を志したのですが、みなさんにとって目標となる「天才」とはどういう人でしょうか。
天才を大事にするということは、結局、「個性」「偏り」「変人」を大事にするということだとも言えるのではないでしょうか。そうしたことに対する考え方についても、議論をしていただけたらと思います。
書き込みボタンを押したら文章が消えてしまってしばらく気力がなくなっていました(3日程へこみました!)。
毎度やっていた「メモ帳での作成」を怠った時に限って…… 油断は禁物ですよね。
天才だ!すげえ!と憧れる人は個人的に野球のイチロー選手や、独立時計師のフィリップ・デュフォー氏です。個人が誰かを(天才とは限らずとも)尊敬するには、色々と理由があると思いますが、そういった意味で天才というのも結局はそれぞれが勝手に自分が認めたと言っているに過ぎないのかもしれません。
もちろん、誰もが認める天才という人物も存在していますが、そういった「天才」という表現には少しばかり違和感を覚えてしまったりします。
一般的な天才という言葉は「(経済的に)成功した人」や「(数値として)活躍した人」でしか認識できないという面があると思います。もちろん、多くの人々に天才として尊敬される人物はそれだけではなく、人間的な部分や、総合的な部分も含めて評価されてはいると思います。
しかしそれでも表に出てきたとされる天才しか、ほとんどの人達は認識できないのではないでしょうか。
私の母は昭和45年頃(三島由紀夫が割腹自殺をした事件があった年です)に、商業高校へ通っていました。<母の話によれば>母は和文タイプライターの天才でした。勉強も運動も不得意で、それだけが取り柄で、和文タイプライター部なるものにも所属する程だったようです。
和文タイプライターは漢字をも網羅しようとした機械なので「交換用のキー」が漢字の分だけ用意されており、どの漢字キーがどの位置にしまわれているのかを記憶してなければ扱えないという、いわゆる特殊技能の典型だったようです。
この昭和45年の前後という時代は、電卓が安価になって普及したり、ワープロが普及し始める時期だったようで、折角見出した和文タイプライターの才能も、社会に出る頃には無用の長物となってしまったのだそうです。
母が本当に和文タイプライターの天才だったとしても、現代で母を「天才」と呼べるのでしょうか。社会で必要とされなくなってしまった才能が天才的であったとしても、誰が母を天才だと認めるのでしょうか。
(母はあまり和文タイピストとしてはこだわりがなかったようで、聞き出すまで本人が忘れてましたが)
ここまでで私が考えているのは「誰もが天才となり得る」のと「天才は人間の中にこそいる」という点です。
書き込みの中にもたくさんありますが「埋もれた天才」や「目に見えない要素の天才」も、たくさんいると思います。どこかの商店街が平和で賑わっているのも、実は自治会の一人のおっちゃんが「何かの」才能を天才的に発揮していたりするのかもしれません。
才能を「限定技能の特化」として捉えるのには違和感があります。才能なんてものは、人間が分析できるようなものではなく、もっと色んな要素がごちゃまぜになっているもの、それが自然だと思うからです。
ですから天才の数としては「私達が把握している天才」なんかよりも、もっともっと沢山の人が存在しているんじゃないかと思います。「誰もが天才となり得る」とはそういった所です。
同時に「認識される事」も、やはり大事な要素だと思います。いくら主張しても和文タイピストの天才は現在、「社会」には直接必要としている所は無いでしょう。そもそも和文タイプライターすら知られていないかもしれません。
また「どう認識されるか」でもその評価は変わると思います。大きな力を持っているだけでは、天才とは呼べません。その力を人の頭に振り下ろせば一瞬で凶器になるからです。その力の使い方が分っていて、更にその正しい方向へ一気に突き抜けられる人、そういう人を天才だと私は呼びたいと思っています。
No1:LAMPRIGERAさんの書き込みにある「偉大な天才」と「天才」の違い、に通ずる所にはならないでしょうか? 「とても頭は良い」けれども、人間の本質のその先を今一歩掴もうとせずにいる人との微妙な違いだと思います。しかし、それはとてつもなく大きく開いた一歩だとも思うのです。
ですから、特に大きな能力を持たない人であったとしても、目の前の一人だけでもなんとか幸せにしようと本気になれる人に、私は心を動かされます。震災等でそういったエピソードもたくさん聞きます。ある人の決死の行動によって、誰かが救われたり、自由になったりする時、その人こそが「その瞬間、天才だった」とも言えるんじゃないかな、などと考えました。
「天才は人の中にいる」とはそういうことです。
私達は「大きな力」に対して、無条件に従ったり、羨望してしまう事があります。
たとえ「数値上とてつもない天才」だとしても、その力が間違った方向に使われてしまうのならば、私達はその天才と断固戦わねばならないと私は考えます。(武力的な意味ではありませんが……)
天才も人間であって、完全ではない。だから人の中で揉まれる必要があると思います。
その「揉む為の土台」として、人間社会が必要だと思うのです。
土台である人間社会は、私達「凡人」がほとんどを構成しています。
(いっしょくたにして申し訳ありません。ただ、文意を汲んで頂ければと思います。)
天才が天才である条件として、人間的素養を求めるのならば、それは「人間社会が持つ役割」ではないでしょうか。書き込みにも多数上げられていますが、その「力」をまず認める度量や器を持つ事。その構成要素は人間一人一人ですから、それらがこつこつと成長を続けてゆく事。それが積もり積もって「天才をより天才たらしめる」のだと思います。
No10:竹内さんのおっしゃるように、「天才」こそが世界を押し上げるのだとするならば(そして私もそう考えます)、その土台となる私達は天才を育て上げ、受け入れ、時に戦おうとする気概をがっつり持つ事で、結局世界を押し上げる事への貢献となるのだと思います。
「限定能力」による天才の把握や、度量の狭さはこれらに対する抵抗勢力となってしまうと私は考えています。ときどき教育や地域社会が「まず人間中心であるべき」と叫ばれるのは、そういった意味も含まれているのではないだろうか、と考えます。