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天才とは何か

◆第七回のお題◆
<天才とは何か>

今回の掲示板では、前回の掲示板No.23でterurunさんが話題にしてくれた「天才」について考えてほしいと思います。

最近、僕が大学入試の問題点についてツイートしたら、進学校のなかにも「模試が何点だった」とか、「偏差値がいくつだった」とか、そういうくだらないことを自慢しあうような人たちがいて、それに辟易していますというリプライを返してくれた人がいたんです。

「天才」というのは、試験の点数といった「量」的なモノサシでは測れない存在だと思います。「量」的なモノサシを超越していて、「質」的な飛躍がある。それが天才だと思うんです。日本の社会の不幸の一つは、「天才」という概念が成熟していないことじゃないかなとも思います。

時には偏っていますし、試験の成績が必ずしも良くなかったりもする。だけど今までの人類が見たこともないような風景を見せてくれる。天才というのは、そんな存在だと思います。

みなさんは天才をどういう存在だとお考えですか。それから、天才を育む環境や、天才の邪魔をしない社会というのは、どういうものだと思いますか。現在の日本の大学は天才を育むのに適した場ではないと僕は感じていますが、では具体的にはどういう改革が考えられるのか。僕は小学生の頃にアインシュタインの伝記を読んで、「世の中でアインシュタインが一番偉い人だ」と思い、物理学者を志したのですが、みなさんにとって目標となる「天才」とはどういう人でしょうか。

天才を大事にするということは、結局、「個性」「偏り」「変人」を大事にするということだとも言えるのではないでしょうか。そうしたことに対する考え方についても、議論をしていただけたらと思います。

NO.19   LAMPRIGERA 2011/07/15 19:45:34 合計 0pt.

>「偉大な天才」と「天才」の違い、に通ずる所にはならないでしょうか? 「とても頭は良い」けれども、人間の本質のその先を今一歩掴もうとせずにいる人との微妙な違いだと思います。しかし、それはとてつもなく大きく開いた一歩だとも思うのです。(No.13)

僕も、trasqueさんに同意します。No.1で投稿した、「天才」と「偉大な天才」の対比は、天才がどこまで全人間的な責任を持つべきなのかという点を考えようとしたものです。

僕がこの対比で指摘したかったことは、ある分野で天才が技術的卓越性を発揮した時、彼/彼女は、その社会的な影響をどこまで考えるのだろうかということです。ある専門分野で、圧倒的な才能を発揮する人でも、その外のこと、つまり自分の専門を離れた時、作り出した技術や知見がたどる末路に関しては、あまり考えない人もあるでしょう(ちなみに、ここでで言う「天才」は、どちらかというと、技術的卓越性としての色合いが濃いと思います。したがって、一つ前の話題の創造性とは別に考えを展開します)。

いわゆる「専門家」という人は、多くの場合、専門分野で技術的に卓越していて天才と言いうるとしても、全人的な責任をベストエフォートとしてどれだけ取ろうとしているのか、そのことも重視されるべきだと考えます。自分は専門家として技術や知見を提示するだけでよい、その外の影響には関知しないとするのは、一つの思考停止です。

例えば、アインシュタインは、アメリカでの原爆の開発にも携わっていたと思います。開発された原爆は広島・長崎に投下され、生きた人間の上で炸裂しました。色々な矛盾はありますが、平和主義者とも言われるアインシュタインは、このとき何を感じたのでしょうか。

アインシュタインは、その後、ラッセル=アインシュタイン宣言を発表し、科学技術の平和利用を訴えました。確かに原爆の開発はおぞましいことですが、その後、彼は「専門家」の領域を超えて、全人的な責任を取るべく最大限の努力をしたのだと思います。