日本の教育はどうあるべきか?
グローバリズムのなか、日本の教育は危機を迎えています。英語教育はどうすべきか? 大学のあり方は?大学入試はどのようなものであるべきなのか? 文部科学省の役割は? 子どもたちが、今身につけるべき能力とは何か?個性を育む教育とは? 教科書検定は、必要なのか?
みなさんの日本の教育についてのヴィジョンを教えてください。
日本の教育はどうあるべきか
引き出し、実践させて行く事。
どうやって引き出していくか、が日本の学校には少ないのではないか、と。
black or White を考える場合でも、そこに個人としての基盤があっての答えになるのかならないのか。
なぜBlackを選び、なぜWhiteを選ぶのか。
どうしてそう考えるのか。
それを明確に説明できるだけの考えを持っているのか。
曖昧な表現では無く、的確に物事をとらえる視点を持てているのか。
教育現場に立つ指導者側が、自らの思考に凝り固まった意見を貫き、それを被教育者達にごり押しするのか。
教育社側でさえ常に思考し、実践し、考察していかなければならないと、僕は今の立場にいて感じている部分です。
すべての物事を否定しない。
けど、完全に肯定もしない。
あらゆる可能性を模索している姿勢こそが教育者側に必要な姿勢なんじゃないか。
そう考えています。
自分の経験則として、過去、学校という場にいて一番学んだというのは、うまく言葉にできる自信がないのですが、「触れた」と実感できた時でした。
確かな質感のある、何かに触れることができた時、僕のほんとに学びたいものが分かったような気がしたんです。
ただ文字列を眺めるだけで無く、ただ書き連ねるだけでもなくて、確かにそこにある“それ”と分かるものに触れた時に、一番学んだ、という気がしました。
実感として高校生までに勉強という形で国語数学理化社会英語…
を学んでいる時間が面白いと感じた事が無いのです。
しかし、勉強への入りが“学校”でないものに関しては、自分で知っているものへの付け足しをしている感覚で、それは何となく面白く感じたのは覚えております。
例えば社会学における歴史を学校で学ぶ前に自分で織田信長に興味がわき、歴史に関する書物を読んだ後に学校での進度が追いついた際の興奮度合といったらなかったのをよく覚えているのです。
にもかかわらず、学校で触れることは非常に少なく、フラストレーションがたまることもしばしば。
教科書に書いてない事が、自分で望んで手に入れたものには書いてある。
その時に“触れた”ように感じたのです。
現在、僕はスポーツトレーニングコーディネーターという名称を勝手に名乗っています。
そんなものは存在しません。勝手に名乗ってます。
この業界の勉強を始めた際、人のからだの事について考える事が非常に面白くて、何だか自分が大きくなれたように感じたものです。
しかし、(まだまだ勉強不足なことを棚上げした上で述べますが)あるポイントから、何だか“ずれている”ように感じたのです。
教科書的に述べられている事と実際に起こっている事象についての隔たり、違和感。
その時、自分の恩師からは「教科書は3割打者」だと言われました。
野球界で3割打者はいいかも知れないが、自分達がやっている事は、その時、その場所にある現象に対して10割の結果を出さなければならない。
という意味で言われたのですが、そうなると、色々な3割を知っていなければならない。
最低限持っていなくてはならない事はあるにしても、それに固執することなく、様々な可能性を排除せず、小さい教科書の中で答えを見出そうとするのでは無く、起こっている現実問題に立ち向かい、思考・実践・考察する事が大切だと。
だから、教育現場は、各人が持っている知識であったり、技術だったり、つまりいきなり実践させられる場が必要で、その為に引き出していく事が必要なのだと考えています。