原発は是か非か
もちろん「原発は絶対安全だ」と言い続けた国や東京電力の問題は大きいと思います。ただ今回の事故に関して批判的な主張をしている側にも、その議論の仕方においては大いに反省点があるように感じるのです。
このように一見議論が盛り上がっているようで、本当に考えるべき大事なことが見過ごされていっているという状況は、津波の被害や放射能の被害とはまた違った方面から、日本という国の将来を危うくしていると思います。こうした状態があまり長い間続くと、議論の上ではなくて、気持ちの上で国民が分裂をしてしまいます。
僕としては何とかこの状況を打破したい。そこで、あえてみなさんにお聞きしたいのです。あなたは日本の原子力発電はどのようにすべきだとお考えですか。
原発は即時全廃させるべきなのか。それとも代替エネルギーとして自然エネルギーの開発を進めながら順次縮小させていくべきなのか。あるいは、より安全でより安価な原子力発を実現させることを目指して、積極的に原子力発電を発展させていくべきなのか。それともまったく別の選択肢があるのか。
真摯な議論をしたいと思います。あなたの考えをぜひお聞かせください。
まず第一に放射能の危険性は過去の事実によって誰しも認めるだろう。確かに低線量放射線は医療に用いる。それでも、蓄積されれば障害を起こす。では何故X線写真を撮るのか。それはデメリットをメリットが上回るからである。それでもデメリットは存在している。だからX線写真と言えども不用意に取るべきではない。以上が一部で恰も放射線の害には閾値が存在するかのように言われていることが間違いであることの理由である。放射線はどんな低線量でも危ない。だから原発はどんな量であっても放射線を放出することは許されない。
次に、放射線を放出しない原発が地球という環境の中で出来るのかという問題である。原発は基本的には金属とコンクリートから構成される。双方とも限界強度を持つ。したがってある力が加われば破壊する。またコンクリートは脆性破壊する。即ち、変形することなく許容限度の力が加われば突然壊れる。これは構造物の下で構造物を支える地盤が、例えば直下地震などで、断層面でずれれば、支えを失い、その失ったところから、破壊が起きる可能性があることを示す。一方金属は塑性変形できるので、ある程度の変形は破壊なく耐えられる。破壊の仕方としては、さらに疲労破壊、腐食破壊がある。原発は燃料を燃やし、水を沸騰させ蒸気を出し、蒸気の力でタービンをまわし発電する。従って、温度を制御することが必要である。このため水の容器である金属は温度の変化が発生する。これにより金属は収縮伸長し、構造体として疲労劣化する。構造体としてという意味は、構造を構成するためには、異種の材料を組み合わせる。すると、それらは同じ温度変化に異なる変形量が発生する。すると異なる材料を結合する部分で力が生じ、亀裂を発生させるのである。なぜ亀裂はできるのか。金属は一見均一な材料に見えるが、実際は結晶の結合体である。そして均一でなく多くの微小な欠陥をもつ。力が加わると欠陥は拡大し亀裂へと成長するのである。亀裂は温度変化の回数、つまり時間の進行とともに大きくなり、一般に寿命で金属は切れる。つまり、寿命まで使用している原発は亀裂だらけの壊れやすいものなのである。又、金属は腐食する。つまり錆びる。さびればボロボロになる。コンクリートも同様に疲労破壊する。何故かと言えば、コンクリートはセメントと砂利の結合体であり、変形した場合セメントと砂利では変形量が異なり、そこに亀裂が発生するからである。このようにしてコンクリートも寿命を持つ。こうした素材の特性を考えるとき、原子炉自体の温度変動は制御されるものとして、寿命予測が一応成り立つであろう。しかし地球環境の変化、即ち、地殻の変動、気候の変化、そしてことに日本では海の傍に建てられる構造として大気の塩分の影響は避けて通れない。これらが原子力発電所に負荷としてかかってくるのである。設計はこれらを考慮すると言うだろう。しかし、自然は未知である。今まで大事故で、こんな負荷がかかるとは思わなかったという専門家の見解を幾度聞いただろう。誰が地球で起きる地震の最大震度を知っているのだろうか。誰が津波の最高高さを知っているのだろうか。我々はもっともっと自然に対して謙虚にならなければならない。つまり絶対安全な原発など出来はしないのだ。
今度は事故が起こって放射性物質が飛散、あるいは流出した場合を考えよう。チェルノブイリの場合であり、福島第一の場合である。この場合、単に飛散流出するだけではない。そこには人間の欲望という魔物が介入してくる。電力企業、政府にしてみれば補償のできるだけの回避、食物生産者、流通業者の被爆食品の売却のための偽装である。これらの悪のため、平和利用という名を呑気に信じ原発を無意識で容認したとはいえ、庶民は被爆の悲劇の中に叩き込まれたのである
。飛散流出は単に気体或いは液体拡散によるのみではない。地球には気流、海流が存在する。従って、放出物質は気液拡散のみでは思いもよらぬほど遠隔地へと拡散していくのである。しかし、何といっても福島第一原発の周辺の放射能濃度は飛び抜けて高い。危険度は非常に大きいのである。一方で福島は無人の地ではない。そこに人が住み、生活し、農業、酪農、漁業を営み、生計を立てている土地である。現在形で書いているのは、事故が起こっている現在もそうした生活がなされているからだ。そこへ、事故は起きた。農産物、乳酸物、畜牛、漁獲物は高濃度に汚染した。これらをどうやったら救済できるのか。本来それらは廃棄され、事故を起こした企業、あるいは国によってその分補償されるべきであった。しかし、人間の欲望は深い。まず取られた処置は、被爆許容値の引き上げであった。こうすることにより、被爆した産品も商品としうる。こんな姑息な手を国は打ったのである。生産者の良心、低濃度の安全なものを消費者に提供しようという心はどこへ行ったのだろうか。次にやったのは産地偽装であると言われる。これは僕は実際に確かめたわけではない。報道で知ったのみである。福島で漁獲されたものを他漁港で買取、他漁港産として商品化する。あるいは他漁港で買取、加工し、加工品としてどこ産のものかわからなくするというのである。
もう良心もへったくれもない。これは生産者だけの責任ではあるまい。そこまで追い込んでしまった者たちとして、即ち、事故を起こした企業であり、国であり、又国民も、そうした者として責任がないとは言えないだろう。なんとかして売ってしまいたいと考える生産者や国、一方で自分たちには何にも責任ないと無関心に逃げる消費者、この人間のやりきれぬ欲望が事態を複雑にしているのである。事故が起こるとこんなことまでしなければならなくなる原発、他の発電方式でこのような複雑な事態をまねくものがあるだろうか。原発以外には考えられぬではないか。なぜそのようなものを更に固執して維持しなければならないのか。ひとつの理由も考えられない。
最後は僕が決定的と考える理由である。原発で使用した燃料の廃棄物である。この処理法はまだ誰にもこれという方法が考え出されてない。即ち、プルトニウムに至っては24000年の半減期で放射能を放出し続けるのである。24000年と言えば人間にとって略永遠ではないか。こんなものをどこに安全に保管しとけというのか。誰も引け受けはしないだろう。そもそも保管自体の完璧性が保証できない。ドラム缶に入れて海に沈めるのか。腐食して漏れ出しては来まいか。では地中深く埋めるのか。地殻変動でドラム缶が壊れるのではないか。安全な方法など有りはしない。廃棄物を処理できずに、どうして原発は方法として成り立つといえるのか。僕はこのことひとつとっても原発を未完成な技術という。
今まで述べたように原子力は現在の人間の手に負えるものではないのだ。少量から莫大なエネルギーを得る方法かもしれない。しかし、負の側面が大きすぎる。この負の側面は人間には制御できない。そればかりか、僕はもうエネルギーを使いたい放題使う文化は終わりだと思う。近代工業化社会は大量生産、大量消費の世界である。これは必然的に大量のエネルギーを必要とした。敢えていえばエネルギーの濫費は地球の環境を変動させるまでになったのである。更に世界はグローバル化と自由主義市場経済により一見富めるものの増大により、エネルギーは大量に使用されるようになった。ここに一見富めるものと書いた。これは本当に富めることだったのだろうかということである。僕らは物が豊かであることがバラ色の幸福であるとして、富を求めた。しかし、それは本当に豊かなことだったのだろうか。生を充足する生きがいから見るとたちまちそのバラ色は色をうしなってしまったのではないか。僕らは心の豊かさを求める方へと梶をきった。とすれば、エネルギーも地球の平衡を壊す大量使用を止めねばならないだろう。つまり電力も大量使用はいらない。光とか風とか潮流とか地熱とか自然から平衡を壊さず得られるエネルギーを電力に変換して暮らしていけばよいではないか。これが僕たちの志向する新しい文化なのではないだろうか。
自然の変動がいつ起こるか現在の科学で予測がつかない以上、原発は即時停止すべきである。
原発事故は福島第一原発だけでも処理できないではないか。これ以上事故が起こったら日本は破滅だろう。僕の目から見れば原発の是非を論じること自体があほらしいことである。それほど事態は明確であると思う。停止したからといって廃炉に持っていくまでに大変な労力がいる。こんなものどうして54基も作ってしまったのだろう。一部では休止している他方式の発電を用いれば、電力は足りるのだと言われる。しかし、僕は節電は文化の転換だと思っている。節電といってもなにがなんでもいつでも電気を使用しないというのではない。必要な電気は使えばいいではないか。節電して熱射病、これほど馬鹿らしいことはない。例えばのべつまくなくエアコンつけっぱなしをやめるとかいうことを節電という。節電といっても足りないのは昼のピーク時なのですからね。僕の言う文化の転換というのは、また別だ。例えば、リニアモーターカー、なんでそんなにいそいでいく必要があるの。自動車、マイカーは基本的にいらない。一人で乗っている人が多い。バスを利用すれば、省エネになる。ということで社会から贅沢を減らし、ささやかな暖かい幸せを実現できる世の中にしたい、ということです。自然と共存する文化を都会にも取り戻したい。かつて都会にももっと人間的な文化があった。新しい文化の方向はそれを今の社会に活かすことだ。
さて、最後に原発をやめると電力が足りなくなる、ということについて。今五十四基あって三十数基止まっている。しかし、停電にならない。五十四基で日本の電力の三割だという。とすれば、三十数基止まって電力okということは原発は高々十数%に過ぎないではないか。これを新方式の発電と節電で十分補うことは出来るでしょう。東電の社長は福島無しで電力余ると言っている。原発の出番はないだろう。