あなたにとっての「古典」とは何ですか?
最近、僕は「日本は変わらなくちゃ」「英語を使ってグローバリズムに適応しないと!」といったことをずっと言い続けてきました。それで「変わらなくちゃ」というメッセージが強くなり過ぎてしまい、「変わるものだけが生き延びる」という一種の強迫観念として受け取ってしまった人もいたかと思います。
この辺りで、ちょっと一度立ち止まって、時間が経っても変わらない古典的なものとは何なのか、考えて直してみるのも必要なことのように感じました。激動の時代だからこそ、「変らなくちゃ」だけではなくて、「変らないもの」の価値も見直したい。
あなたにとっての「古典」とは何ですか? あなたにとって時間が経っても変わらない価値とは何でしょうか? 本でもいいですし、映画でもいいですし、大切な友人でもいい。みなさん、自分の「古典」を持ち寄って語り合ってみましょう!
NO.3に書き込まれた、trasqueさんの、
「名言や格言なども含めて、そういったものが自分の身に入って行く事で、作品が伝えんとする「文の奥」のようなものが見えるようになったのだと思います。」
という言葉、しみじみと本を読んだときの、物語の中に入っていく感覚を思い出しました。
どうもありがとうございます。
源氏物語や百人一首の中の句を読んだ時の、
一瞬、その世界に自分がいて、その光景を見ているような
気持ちになっている瞬間が好きです。
「よもすがら 物思ふころは 明けやらで 閨のひまさえ つれなかりけり」 (俊恵法師)
小学校の時にひらがなで覚えた百人一首の句ですが、
「ねやのひまさえ つれなかりけり」という、
大人になってからわかったのですが、
夜通しつれない恋人のことを思ってなかなか夜が明けず、
寝室の隙間までが
つれないと思えてくる……
そんな部屋のすみっこ。その光景が見えてきて、好きな句です。
源氏物語や百人一首の句も大好きなのですが、
私にとっての古典は、何故かブッダのことを描いた本なのです。
どうも、20代前半の悩める時期に手塚治虫先生の
「ブッダ」を読んでからというもの、
困った時に開く本はいつも
ブッダのことを描いた本でした。
ブッダの生き様を読んでいると、
自分の悩み事があまりにも小さくて
たいしたことがないと感じるようになってくるんですね。
ブッダの生きていた時代、
インドではカースト制度があり、
貧富の差は激しく、飢えによって子供が死ぬのは
日常茶飯事でした。
その、子供を失った母親の
狂った気持ちを正しい方向へと導くブッダの教え
(子供を失った母親に、誰も死人を出していない家のトウガラシの種を持ってこれば
生き返らすことができると語った、キサー・ゴータミーのお話。
ゴータミーは家々を回るうちに、どの家でも誰かが死んで
悲しんでいることを知る)を 読んでいると
お釈迦様がいつも、「よく見ろ」と言っているように思えるのです。
よく見なさい。
よくよく、見てみなさい。と。
人は、自分の見えるところまでしか、見ようとしません。
もっと言えば、自分に都合のいいところしか
見ようとしないし、見れないのが人であって、
それが人の限界だと思うのです。
ですが、お釈迦様(ブッダ)は
もっとよく見ろとおっしゃいます。
そして、その見方というものが
外から自分を見ている感覚というか、
宇宙から自分と自分以外の世界を見ている感覚に
近いと感じました。
お釈迦様は、たとえ話の名人だったのだと思います。
なので、私の中にはお釈迦様のお話は
古典として、
やっぱりその世界に入って、見てきたような気持ちになって。
いるみたいなんです。