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「結婚」について考えてみよう!

一昔前までは、ある年齢になると結婚をするというのが「当たり前」と考えられていました。異性との出会いがあまり多くない環境で生活していたとしても、「お見合い」といった形で周囲の人が相手の人を紹介してくれるような、いわゆるセーフティネットもあったわけです。

でも今はそういったものはほとんどなくなってしまいました。また、ライフスタイルも非常に多様化していて、結婚をして子供を作るということが唯一の「幸せの方程式」ではなくなりました。ヨーロッパではすでに結婚をしない形での男女の結び付き、あるいは同性同士での結び付きも当たり前になってきています。

一方で、「婚活」という言葉にも代表されるように、日本人はいまだに結婚にこだわる側面も残っている。それなのに、男性にしても、女性にしても、適当な相手がいない、どうしたら出会えるか分からない。そんな悩みをよく聞きます。もしかしたら、こうした結婚に対する保守的な考え方が、日本人を不自由にさせているのかもしれません。

みなさんはこれからの結婚のあり方、あるいは結婚という形にこだわらない男女の結び付きのあり方について、どのようにお考えですか? 教えてください。

NO.2   ryosuke85 2011/09/07 20:01:47 合計 0pt.

結婚について

個人的な報告から一つ。
僕、遠藤涼介は先日、8月22日に入籍し、この9月10日に式と披露宴を
執り行います。
という非常に個人的な報告から“結婚について”の意見を述べたいと思います。

男女のつながりは、その前提として「人間的な魅力が感じられるかどうか」が、
男女としてよりも、人として付き合う上で必要なことではないか、と考えています。
僕が結婚を決意した大きな理由は、刺激を受けられるかどうか、が大きな点でした。
僕に生きる上での刺激を与えてくれるような熱い人間が僕には必要で、
これは、この掲示板に意見を投じている皆さんにも熱いものを感じますし、
実際に顔を突き合わせて、表情を確認できる位置にいる関係性の人間にでも
同じことを感じる人間とは一緒にいます。

自分としての意見がきちんと持てて、現状に対して自分が出来ることが何かを考え、
“当たり前”を当たり前として受け入れずに、考えた上で、自分が納得した上で
次の行動に出る。
そこで、意見の相違があれば議論をする。

そういう熱い気持ちを持っている人が僕の人生には必要であり、
言うなれば松岡修造さんの様な熱い気持ちを持つ人に、非常に魅力を感じます。
本気になれる事がある、という事がどれだけ魅力的な事か。
本気になれる事に対して全力を投じるという姿勢がどれほどまでに格好いいか。
また、三浦和良選手の格好よさは、なにもサッカーをしているだからでは無く、
本気でサッカーに取り組んでおり、常に全力を投じているからこそ、
見ている人たちに興奮を運んでくれるものだと思います。

中にはそういう熱い部分を「暑苦しい」と煙に巻く人もいるでしょうが、僕にとっては
大変修造さんは尊敬できる方であり、
僕の人生の中でとても大きな存在感を持っている方です。
修造さんまで行かなくとも、“熱いモノ”を持っている人物と接する事で、
自分の熱さを再確認でき、自分の持っている熱と相手の持っている熱を比べた時に、
自分の熱が低かった時にもっと熱くやらなければ…と鞭を打たれますし、
逆に相手よりもこちらの熱が上回っていた場合は、
冷静な物の見方をさせて貰えます。

赤の他人同士が人生のベクトルを“ほぼ”同じ方向へ向けて歩こうとする中で、
お互いに何かを感じて共に行くわけですが、そこには“自分では無い”存在が
同じ空間の中にいることをどう感じ、どう捉え、どう対応していくのか。
人間的な魅力を感じて、共に生きようと決意すると共に、その辺りのマネジメント
もしていく事が重要だと思うのです。
また、そこに面白みがあると思いますし、そもそも、男女関係の駆け引きが
人間関係のマネジメントの中で一番面白いものだと思っています。
ですから、自分とは違う思考、行動、言動をどれだけ引き出しながら、
刺激を受けながら、相手にも刺激になれる様に、というのが、人間関係において
大切なことであり、強いて言えば結婚生活に大切なのかな、と感じています。


ここからは非常に表現が難しく、また、僕の文章力の問題で上手に伝えられるか
自信がないのですが、結婚という形式がなぜ重要なのか、という点について
述べたいと思います。

日本において結婚というものが重要なことだというのは、
家族同士の繋がりが構築されるという古来の風習が大きいように感じます。
また、社会全体として個々人を取り巻く環境が変化しているにも関わらず、
結婚=一人前という通念的な思考に捉われている事もあると思うのです。
現在、まだまだ不完全と言えるかもしれませんが、女性の社会進出も増え、
女性自身が稼ぎを得ることが可能となっている事で、夫婦契約を結ばなくても
自立して生きていけることが結婚の必要性を低下させている様にも思います。

しかし、当人たちのことだけれど、親族など自分たち以外の人間が絡んでくることで、
大切なことと認識されているのだと、僕は自分の結婚を機に感じました。
このあたりは、個人よりも集団に重きを置くメンタリティの根底があるように思います。
自分たちの顔も見た事もない親類にあたる方からお祝いをしていただく事は
非常に嬉しく思う反面、戸惑いを感じてしまいます。
何処まで「ありがとう」「お世話になりました」「これからもよろしく」を言えばいいのか。
勿論、言える方々に最大限の力を込めて伝える事は必要だと思うのですが、
あまりにも強すぎる“親族間の繋がり”は非常に違和感を覚えてしまいます。
それは、良さなのかもしれませんが、それは個人を見るのでは無く、
集団を見る事になり、結局、【○○家】という広い括りで判断されることになり、
結婚を決めた当人たちの事は、その括りの中での出来事として片付けられ、
【○○家】という大きなくくりの一エピソードに“成り下がる”
ようにも思えてなりません。
このあたりの考えは、我が家の両親が半ば駆け落ちのような形で一緒になり、
母方の親族から反対をされながら結婚をした、という経験が僕に伝わり、
そこから親族間の繋がりについて考えるきっかけになったといえます。

勿論、至らない言葉ばかりで表現が難しいのですが、誰のためのものなのか、
という事を認識できないといけないのかな、と思います。