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「学歴」とは何だろうか

「学歴」とは何だろうか、ということについてみなさんのご意見をうかがいたいと思います。「学歴社会」が崩壊したとはいいながら、大手企業の中ではその採用において事実上の「指定校」制度をとっているところもあると聞きます。

はたして、18歳の時の入試の成績が、そんなに重要なのか。学歴は、それを持つ者にとっても、持たないものにとっても、やっかいな存在です。さまざまなコンプレックスの原因にもなる。情報ビッグバンで、多くの人が自由に情報にアクセスできる時代に、本当に「学歴」は必要なのでしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。

NO.4   minami2006 2011/09/25 03:56:10 合計 0pt.

無形の大学

一般に、物事は、いろいろな現象や事物の膨大な蓄積である。

人間とは関係あってもなくても、それはそこに存在するものである。

その物事を人間が記述し、表現し、記録し、他者または後世に伝える段階で、それは、データとなり、現象や事件、出来事として表現され、他の側面を捨象されて、一定の特色、特徴、あらましだけを、記録され、順々に伝えられてゆく。

そうした記録の積み重ねから、経験的に、あるいは、帰納法的に、理論が生まれ、法則と成り、法則や理論、仮説となったものが、現実によって検証されて、徐々に洗練されて、より確からしくなって、定説となる。

また、デカルト的に、「われ思う、ゆえに、われ有り」から始まって、合理論的に演繹されて、帰納法による法則、理論の抽出、発見とあいまって、科学と成り、人間の世界観をも形成する。

人間の知見もそうした有史以来の蓄積と発見があって、文化・文明を形成し、現代の社会を成り立たせてきた。

人間の世界は、そうした一定の確からしさを確認された知識や定理、法則、経験則の蓄積によって動いている。道徳や法律も、人間社会の活動を円滑ならしめて、無用な紛争を円満に抑止し、解決するためにある。

教育とは、そうした知識や情報、道徳、法則を徐々に子供が成長するに従って段階的に教え込み、次世代に伝えてゆく、営々と続く人間の活動である。

その教育の頂点としての高等教育機関である大学や大学院は、日進月歩の速さで拡大する人間の知識の地平を検証し、記録し、発見者から大勢の他者に伝えてゆく試みである。

よって、知識・知見の発見・拡大・記録・検証・伝達が上手くできるならば、大学や大学院などという形式にこだわる事は、ないのである。

ましてや、大学が有名かどうか、偏差値が高いかどうかなどといった事は、効率的な知識や知見の発見・記録・伝達が出来るかどうか、ということについての結果、評価であり、より効率の良い教育が出来るならば、銘柄大学に入学し、卒業したかどうか、といったことは、二次的な事に過ぎない。

つまり、大学・大学院でなくとも、同等の知識獲得や経験が出来るならば、別の知識・経験の獲得方法でも、構わないのである。

よって、特に文系の学問で言える事だが、書物やネット、実社会で同等の知識・経験・知見を得られるならば、それは、既存の大学と同等の価値のある「無形の大学」と言えるのである。

人生は、どれだけの知識や経験を積んで、他者に有益な価値を提供できるか、どれだけ、人の役に立つ人間になれるか、人に迷惑をかけないか、といった事で、決まる事が多いと私は思う。

だから、銘柄大学出身はおろか、院卒か、大卒か、高卒か、中卒か、といった学歴によって直ちに人間の価値を決めるのは、ナンセンスである。

モノをいうのは、社会に出てから役に立つ能力や経験、知識であり、決して学歴だけで人間の価値が決まる事はないのである。

また、近年は、中国やインドなど、BRICsやVISTA、G20諸国の追い上げ、追い越し、バブルもある。

大学の現役学生には、上記の事を踏まえて、少子高齢化する日本、「老いるアジア」(小峰隆夫)、ネットで「フラット化する世界」(トーマス・フリードマン)、中東やTPPなどで塗り変わりつつある世界情勢、日進月歩のITなどの技術革新を念頭に、「マーケティング3.0」(フィリップ・コトラー)によって、しっかりと社会及び一体化しつつある世界のニーズを把握して、心して、勉学と人格形成、内外の知人・友人との交流に励んで欲しい。