「学歴」とは何だろうか
はたして、18歳の時の入試の成績が、そんなに重要なのか。学歴は、それを持つ者にとっても、持たないものにとっても、やっかいな存在です。さまざまなコンプレックスの原因にもなる。情報ビッグバンで、多くの人が自由に情報にアクセスできる時代に、本当に「学歴」は必要なのでしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。
私は、学歴というよりそれを決める入試制度、義務教育から始まり受験勉強で『終わる』知識偏重の日本の教育問題という観点で論じて行きたいと思います。
まず、現状分析。
現在の日本の教育が知識偏重である事に異論は無いと思います。小学1年生から始まる暗記テストの繰り返し。暗記数学などという言葉が蔓延り、まかり通る受験勉強。
次に、問題把握。
「知識を得る事自体は素晴らしい」事です。しかし、我々の目的は常に、知識を覚える事ではなく、「新しい知識を生み出す」事にあるはずです。しかし、日本の教育は、子供に「知識を生み出す過程」を経験する機会を与えていません。そもそも「知識が生み出される過程」というものさえまともに教えていないのです。
さて、原因分析。
バリバリの理系で歴史には疎い私ですが、日本の近代教育の始まりが明治維新の頃であった事は容易に推察できます。江戸時代まで鎖国状態にあった日本は、開国して欧米の大量の知識を目の当たりにしました。そしてその大量の知識を急いで国民に普及しなければ、と考えたのでしょう。それが現在に至るまで続く、知識偏重の日本の教育の根幹なのです。
しかし、ここで一つ重大な過ちを犯したのです。
それは、大量の知識を普及する事にこだわるあまり、その「知識が生み出された過程」を国民に学ばせる事をしなかったのです。いや、正確にはできなかったのです。万有引力の法則を見出したニュートンは、もはや過去の人。ヨーロッパの人々は彼と共に時代を生き、「彼の発見に至るまでの過程を余す事無く堪能」できたのです。日本人にはもはやそれは出来なかった。だから今でも大多数の日本国民は、ニュートンの名前と、万有引力の法則の内容と、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見てひらめいたという逸話しか知らないのです。しかし、万有引力の法則という重大な法則の発見が、そんな簡単に見つかったはずがないのです。私がその事を知ったのは、とあるテレビ番組で、ニュートンが発見に至るまでにいかに月の観測に執念を持って取り組んだか、について取り上げられているのをちらっと見たときでした。そんな事は日本の教科書にはまともに取り上げられていないのです。そんな教科書より、私がその後床屋で適当に手に取って読んだ「ギャグマンガ日和」の方がよっぽど、ニュートンが文字通り「頭をフル回転して発見に至った」事が「想像」できます。このように、日本は義務教育から受験勉強に至るまで、「新たな知識が生まれる過程」を「見聞」する機会も「経験」する機会も与えていないのです。
では、論点整理。
『知識が生まれる過程を教えるのは、ある程度知識が身に付いてからでいい』と仰る方には、ここで私個人の話を聞いて頂きたいです。長いので以上の点に納得している方は一気に飛ばして頂いて結構です。
私は現在大学三年生、『理学部』の化学系です。実は『一浪』した上に、いわゆる『駅弁大学』に通い、さらにそこで既に『一留』までしています。世間的には大学名どころの学歴の話では済みません。
そして私は当然のようにこの先の『就職の心配』をしていたため、大学院から、より『就職状況のいい薬学研究科』を目指す事としました。今年の春休み中、有機化学の『教科書』を読んでいたのです。
さて、『院試対策』を意識して、早い時期に研究室訪問をしようと考えた私は、「自分がやってみたかった」分子設計に必要だろうと早計して、構造生物学の研究室と「アポを取り」ました。
流石に「訪問する」前にいくつか『論文』というものを読んでおかなければ、と考えた(『順番が逆』)私は、論文を検索して「読んでみよう」としましたが、『一文読むのに30分』という状況に挫折しました。現時点での私は、『英語力』もさる事ながら、『高校で生物Ⅰしか履修していない』、『大学の生物系の授業も通年で1コマのみ』という『知識レベル』であったため、『専門用語も理解できない』状態でした。
仕方がないので、基本的な「知識を得たい」と思った私は、「偶然」大学生協で「見つけた」【たんぱく質入門】という本で基礎「知識を得よう」としました。
簡単で「面白い」本だったのですらすら読め、訪問の当日には本にメモしてあった「質問する」内容をピックアップしようと、バスの中でもう一度「読み返し」ていました。
そこで、ユビキチンというタンパク質を扱った節に至りました。ユビキチンとは壊れたタンパク質を分解機構に導くための目印(タグ)となる小さなタンパク質で、生体内のどの細胞中にも存在するものです。「後で知った」事ですが、このユビキチンの分解機構に関する研究は、2004年の『ノーベル賞』となっています。
そして、このユビキチンを見て私には、「標的となる病原タンパク質に結合できる医薬分子に、予めユビキチンを結合させておいたらどうなるか」という「疑問」を抱きました。
この事を訪問先の研究室の教授に「質問」したところ、「私は聞いた事がありません」という回答を頂きました。
これに「気を良く」した私は、さらに「自分で調べ」ながら、「自分の考えた」、ターゲットタンパク質を破壊できる「かもしれない」【ユビキチン医薬】を、旧友で『薬学部に在籍中』の女の子に、「相談して」みる事にしました。
その女の子の感想は、「スゲー」という言葉。しかしそれは『まず基礎を一番に』との前置きの後。
私の思いついた【ユビキチン医薬】が実際に実現可能かどうかなどは問題ではありません。重要なのは、『基礎』からみっちりと『薬学部』で学んでいるはずの薬学部生も教授も「分からない事を思いついた」という事実です。
「分からない事を思いついた」事こそ、新たな知識が生まれる前提条件ではないでしょうか?
一般向けに書かれた、挿絵だらけの【たんぱく質入門】というブルーバックスの「本1冊が、大量にある教科書を上回る」のです。
これは偶然で片づけられる問題か。それは私が分子設計にこだわったルーツを省みる事である程度説明出来る事に気が付きました。
私は「小学校3年生の頃」、小学校の授業で図書室に行った際、「その時点で既に強く関心を持っていた」科学の本が並んだ棚から、【もしも原子がみえたなら】という本を「手に取り」ました。まだ授業で原子について「習う事など無い」はずの小学生が「偶然」「手に取った」本が、私が化学の「道を選んだ」始まりだったのです。
私にはある癖があります。
私はごくたまに、自分の手の親指と人差し指をゆっくりくっつけたり開いたりするのです。
これは、原子の大きさを再現しようという、正にタイトル通りの【もしも原子がみえた「なら」】を実践していたのです。
これこそ正に本の書き手が「望んでいた」事なのでしょう。
人類の進歩や教育が、「新しい知識を生み出す」ためにあるなら、わざわざ指導要領で雁字搦めにする必要などないのです。新たな知識とは科学の世界だけの話ではありません。
この先生じる社会問題に挑む上でも不可欠になってきます。
そして『最初に基礎知識だけでも詰め込んでおいた方が効率がいい』というのも間違いです。
私はこの先薬学部生が学んだ『教科書を総ざらい』しなくても、ユビキチンに「重点を置いて情報収集にあたる」事ができます。
そもそもこの情報化社会で、どれが重要な情報かなどもはや定義できません。それを無理矢理定義したところで、人生最初の20年で学んだ事はすぐに風化します。それよりも自分の関心のある事を自分で学ぶ「自立学習」の経験を幼少期から積ませれば、社会に出た後も「自動制御で必要な知識を身に付けて生きていける」ようになります。
そして、解決策模索。
さて「自立学習」をする上で重要なのが、先にも述べた「知識が生まれる過程」を経験する事です。指導方法は難しいかもしれませんが、『知識を詰め込み続ける』事に弊害がある事は確かでしょう。子供に「自分で考える余裕」を与えないのですから。
そして「知識が生まれる過程」を見聞させる方法も必ずや有効になると思います。子供は何でも真似して覚えますから。
最後に、解決策提案。
このような「自立学習」を子供に根付かせる方法をいくつか提案してみたいと思います。
一つは、多分野から先生を用意する事です。
各子供の関心に応えられるように、社会のあらゆる所から先生を募るのです。私が早急に始めるべきだと考えているのは、団塊の世代の登用です。彼らの「経験」こそ一番の知的財産です。年金生活を始めてこのまま呆けていくのを待つのみ、というは非常にもったいないです。『知識』よりも「経験」。彼らの「失敗と成功の過程」こそ、ニュートンのそれをはるかに超える遺産です。
二つ目に、それら多分野から集めた「専門」の先生の教室をそれぞれ用意し、児童はその先生の教室まで行って授業に臨みます。
担任が『一人で全ての分野を教える』今のやり方では、子供の関心に応える事など無理だったのです。
多くの大人を知る事で、子供の視野は大幅に広がるでしょう。
しかし、クラスは定め、言語力、計算力、倫理観、健康観などは原則必修として、クラス一体で授業を受けさせます。
担任の先生は子供の意志で多分野の先生から選ばせます。
さて、ここで多くの教室が必要となりそうですが、これらは全学年共通の授業を行うという形で対応します。
すると低学年の中に授業が理解出来ない子が出てきます。
しかし、これこそが私のもう一つの狙いです。
そういう低学年の子に対して、先生は上級生に教えてあげるよう促すのです。子供のうちに「先生の経験」をさせる、いわば「自立教育」が大切なのです。
私がそう思うようになったのは、研究テーマに関する質問を薬学部の子にしても『自分で調べてから人に聞きなさい』と言われた経験からです。これこそが『自分一人で何でも調べられる』と考えている『完璧主義』の表れです。それが出来るなら誰も大学で授業を受ける事無く自分で調べられるはずでしょう。そして人に知識を提供する気も無くわざわざ大学にまで通っているのは、『利己主義』でしかありません。
また、twitterをしている時も、明らかに自分より知識があるはずなのに『私は先生では無いので』とお茶を濁す方も複数いました。
誰も貴方に完璧など求めていないのです。人間は無知で無能な存在であり、人によって向き不向きがあります。宮本武蔵はそれを自分という人間に当てはめ「我以外皆師」という言葉を残したそうですが、それに「皆が我と同じ人間である」という「人間性」を加えれば「我は皆の師である」という事が導かれます。
そのような「博愛主義」が日本に根付かないのは、点数で評価するシステムの大きな弊害です。『教育とは点数の上の者から下の者に与えられるもの』という暗黙の了解のせいで、もはや『満点を取っていない自分は教える側ではない』という論理に結びついているのです。
本当は教え合う事こそ自分の知識や考えを洗練させる事につながると言うのに。
『完璧主義』より「成長主義」なのです。
「自立学習」に始まり、「自立教育」の必要性を説いたところで結ばさせて頂きます。
しかし、私自身も驚きましたが、実は私も先に投稿していた方と同様、『統合失調症』なのです。
私の場合は自殺未遂まで至り、『一留』となりました。
しかし、先の方と同様私の感覚でも、症状が安定した後は学習能力が高まったような印象を受けています。
私の場合は、マイナス思考に苛まれた際、頭の回転速度のパイが大幅に上がったのではないかと推察しています。
今は症状が安定してきて、研究テーマを考えたり、社会問題の解決策を講じたりするような建設的な方向に頭を使う機会が増えましたが、一週間ずっと一日中考え事をしても、全く苦にならないのです。
また、一度生死の概念もひっくり返るような自殺未遂に至った事で、生きる意義について普段から真剣に考えるようになりました。
私はこれを、脳の「再統合化」と呼んでいます。
ぜひ脳科学者の茂木さんの見解をうかがいたいです。
*ちなみに「」と『』は自分なりに意味を持たせた
つもりです。読みにくかったかもしれませんがご了承ください。