「学歴」とは何だろうか
はたして、18歳の時の入試の成績が、そんなに重要なのか。学歴は、それを持つ者にとっても、持たないものにとっても、やっかいな存在です。さまざまなコンプレックスの原因にもなる。情報ビッグバンで、多くの人が自由に情報にアクセスできる時代に、本当に「学歴」は必要なのでしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。
追記です。
統合失調症の症状に、『他人に自分の頭の中を読まれている』と妄想してしまう、というものがあるそうです。
私もそれと似たような経験があり、例えばテレビなどで、知人の姓と名を組み合わせたような赤の他人の名前を見ると、自分の個人情報が漏れていると感じて非常に怖くなった経験があります。
ところが被害妄想的な症状が収まっても、自分の考えていたキーワードがテレビで流れてくると、ちょっと意識が向いてしまいます。
たった今まで、先の長文の投稿を書き終えてテレビを見に行ったのですが、何の番組かは知りませんが、日米修好通商条約を批准しに行ったという方の話がありました。その話の中でテレビの中の人が「彼は本望だったと思いますよ。自分の「シメイ」を果たしたのだから。」と表現していました。
私は実は今日、親からもらった自分の名に新たな意味を持たせるという大儀を行いました。
それを自分のFacebookのノートに書き残したのですが、そこで
…「氏名」であり、「指名」であり、「使命」でもある。
という表現を用いているのです。
そのせいで私は、先のテレビの一節を聞いただけで、「誰の事を言っているのか」、「何と言う名前なのか」に凄く関心が行きました。
9月の頭位に、「2ちゃんねる」という掲示板で、死刑制度にふと興味を持って書き込みを始めました。
死刑存置派ばかりだったので、自分はとりあえず廃止派という事で議論を始めましたが、複数の存置派の全ての書き込みに、逐一長文レスで返していました。
おかげで、スレッドの容量オーバーになってしまったので反省して2ちゃんから離れる事にしました。
そんな書き込みを続けている際、ある存置派の人から「頭が悪い」と書き込みがあった時に、
「いや、確実にお前たちより多くシナプスが働いている。自分の理解できない者を頭が悪いとするのは愚かだ。」
という横レスが入ったのです。
ちなみに私はそのスレでも自分が統合失調症だと明かしております。
また、私は死刑廃止の論拠を示すのに、
「死んだ命はどうあっても取り戻す事はできないから、凶悪犯を殺したところで責任をとった事にはならない。」
とレスしましたが、昨日、twitterのTLに、
「電力はお金で買えるけど、命はお金じゃ買えないんだよ。」
というものを見つけて、すぐに
「亡くした命はお金では戻らない、が真理ですね。」
と返しました。
以上は、情報のキャプチャー力が非常に優れているのかもしれないと考えています。
そしてたとえそうでなくても、過去に自分が考えた事と現在自分が認識した情報との連結力が、明らかに上がったように思えてなりません。つまり、
「この情報との出会いは運命だ。」
と感じる事が多々あるという事です。
さらに、始めたばかりの2ちゃんねるやtwitterでも、自分や相手の論理の「矛盾」にいち早く気付けるように思います。
というのは、相手が自分に対して「論理が矛盾している」と言ってきた時に、
「私の論拠のどこに『矛』と『盾』があるのか教えてください。」
というと相手のreplyが返って来なくなる事があったからです。
また、死刑廃止派で始めた議論を始めたものの、
「死刑に執行猶予を認める事で、死刑から終身刑、有期刑までの一連の法体系が完成して機能する」
「死刑に執行猶予を認める事で、裁判所は死刑判決が出しやすくなり、比較的軽犯罪んでも死刑にされるという可能性を恐れて、犯罪者が減る」
という死刑を認める形での自分なりの最善策を見出せました。
ところがこの策は存置派には論破されるどころか、相手にもされなかったのです。
有機刑が有効と仮定すれば、法体系に連続性を持たせるのも当然有効だと思います。
また、裁判所と犯罪者の心理状態の変化を利用するというのは、心理は不変という観念にとらわれない大胆な発想だと考えています。
統合失調症と自殺未遂の経験によって、既存の考え方に囚われなくなった影響だと考えいます。
もはや何を持って「実力がある」とするのか、私にも分からないです。
ぜひ茂木さんのご意見もお聞きしたいです。