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「学歴」とは何だろうか

「学歴」とは何だろうか、ということについてみなさんのご意見をうかがいたいと思います。「学歴社会」が崩壊したとはいいながら、大手企業の中ではその採用において事実上の「指定校」制度をとっているところもあると聞きます。

はたして、18歳の時の入試の成績が、そんなに重要なのか。学歴は、それを持つ者にとっても、持たないものにとっても、やっかいな存在です。さまざまなコンプレックスの原因にもなる。情報ビッグバンで、多くの人が自由に情報にアクセスできる時代に、本当に「学歴」は必要なのでしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。

NO.15   trasque 2011/09/28 07:19:25 合計 0pt.

No.10 myyourdreamscさんの書き込みで…
”宮本武蔵はそれを自分という人間に当てはめ「我以外皆師」という言葉を残したそうですが、それに「皆が我と同じ人間である」という「人間性」を加えれば「我は皆の師である」という事が導かれます。”
”本当は教え合う事こそ自分の知識や考えを洗練させる事につながると言うのに。”
この部分に感銘を受けました。まさしくその通りだと私も感じます。

学歴については日本の場合、高名な大学程に入学が困難だという印象もある為、その大学にいるというだけで「それなりの努力ができる人物」という評価はできるのだと思います。
私自身はいわゆるお勉強が好きではありませんでしたから大学の学歴はありませんし、事実としてそういった「コツコツと努力する」という性質を持っていません。常々反省しなければと感じてしまうのですが、努力の継続が出来るというのは一つの立派な能力であって、大事にすべきだと感じます。
また、程度の差こそあれ「本番」までの期間はそれぞれ同じような長さなので「効率よく、要領よくがんばれる」という面もあるのかもしれません。そういった評価は出せるのかもしれません。

ですから、大学等の学歴から「何らかの目的に対して、毎日アプローチできる人物」かどうかをある程度読み取れるのではないかと思う訳です。一つの目標に対して、最も地道にして近道なのは継続だというのは、多くの人が考える所だと思うからです。
なので私は、これから学歴を積んでいこうとする人達に「何をしに大学へ行くのか」と、彼等へ問い続けてあげて欲しいと思う事があります。多くの少年達は「やりたいことが決まっている訳でもなくただ大学へ行く」のだと思います。夢や目標が漠然としたままである事が悪ではありませんが、やはり単なる「就職有利の保険」の為だけになってしまうよりかは、意識していてほしいなと思う訳です。


何の為に学ぼうとするのか。これを忘れないでほしい。
そうやって、何度も語れる大人が、学生の周りにいるかどうか。
それによって「彼等の学歴の意味」も、輝いていくのではないでしょうか。


私自身、学力(というべきか、他にいい言葉がみつかりません)は「人間の為に」という目標を持って積んでいって貰えればと思っています。もちろん人間以外を無視した、という意味ではありません。
将来自分がただ安定する為だったり、ただ人より突出する為だけだったり、そういうことでは寂しいと思います。世界を救えとは言いませんが、身の回りの誰かの力になれるような、そんな目的を持って自分を高めていって欲しいと思います。
「何の為に学ぶのか」これを考え抜いて学校生活、学生生活を生き抜いて欲しいなと思います。そうすれば学歴の先に行っても、常に「学ぶ人」で居られると思うからです。社会人でも「何の為に学ぶのか」を忘れないからです。そうして「人間の為に」走りぬけようとする人にこそ、輝くものが見えてくると私は感じます。


学歴を聞いた時、同時につい聞いてしまう事があります。
それは「その大学で、あなたは何をしているのですか」という事です。
欲しいのは学歴ではなくて「戦歴」なのかな、と質問しておいて自分で考えたりします。

ノーベル文学賞を受賞したロマン・ロランは、トルストイと文通をしていました。ガンジーとも対談をしたと言われています。こういったことも「学び」の一つではないでしょうか。
どれだけ高名になっても、どれだけ権威があろうと、あらゆる人や事から学ぶ事ができる。
そういった「活動」こそが学歴、学んだ歴史、ではないでしょうか。
ですから学歴は本来、履歴書に羅列できるようなものではないと思うのです。
いや、履歴書に書かれていることは単なる「経歴」に過ぎないとも言えると私は考えます。

戦歴を積みましょう!あらゆる事を!
”統合失調症と自殺未遂の経験によって、既存の考え方に囚われなくなった影響だと考えいます。”
こういったことも私は戦歴だと思っています。私自身もクローン病を通して学んだ事は数知れず持っていると自負している部分があります。
学歴を卑下しないで欲しいなと思います。その大学に入るまでに至る物語は、その人にしかないものですから。自分はやり抜いたんだというモノがあったのならば武器にすればいいし、実はそんなに苦労せずに受かってしまったというのであれば、一度死に物狂いの努力をやってみようとバネにすればいいんです。



就職において「指定校」などがあるというのは少し悲しい話ではありますね。
私は高校が工業高校でした。卒業当時、高校生の就職氷河期のような事が言われていて、全国平均で求人件数が100%を大きく下回っていましたが、その中でさえ私の通う高校は800%を超える求人を誇っていました。
工業高校なのでいわゆる「偏差値」はかなり低い学校なのですが、企業からの評価がとても高いという話を教師がしていたのを覚えています。卒業生達の礼節がとても良く、しっかり働き結果を残していて、後輩の為に道を拓いているのだ、と。

これも一つの「学歴による就職優位差」なのかもしれません。
その当時の私は、その事に疑問を抱かず、むしろその学校にいる事を誇りに思っていました。
しかし、大学生就職活動で似たような話を聞くと「なんだかな」と思ってしまう。この差はなんでしょう。

私の居た工業高校は何より「礼節」を重んじていました。
「教師とすれ違う時にはかならず元気な声で挨拶をする事!」 というのがまず何よりも重要視されていたように思います。といっても、重苦しく感じたことはなく、これが当たり前という風土があったおかげで、自分から話しかけるのが苦手な自分でも、挨拶だけは苦もなくできるようになりました。
多少校則を破っているのは良いとしても、挨拶できない奴はダメだ! 全ての教師の原則のようになっており、教師の方もかならず目を見て、大きな声で返してくれたものです。挨拶しなければ、いちいち呼び止めて注意をしてくれました。
生徒も教師も「工業高校生として、社会に役立つ人物になるんだ、するんだ」という意識がとても強い学校でした。そういう目的を同一としていましたから、ある意味で生徒と教師は同じ土俵の立場になっていました。

私は学歴こそ高卒ですが、大学にいた時期があります。
まず入学して、何より驚いたのが 「誰も挨拶をしない」 という事でした。
教師のような人とすれ違う時に、自然と挨拶をするクセが出来ていましたので、入学直後は声をかけていたのですが、学生でそういうことをしている人をまず見かけない…
しかしそれ以上に驚いたのは、声を掛けた「教師が驚く」のです、いや、それどころか「教師が挨拶を返してこない(ように見える?)」事でした。

私にとっては衝撃的な数日間だったのですが、数ヶ月もして気がつけば、私自身も「そんな彼等」と同じように、よく見知った相手でもない限り挨拶をするというような事はなくなっていってしまいました。
それでも、在学中はそういった空気に「さみしさ」を感じていたのは事実です。
その中で「あの工業高校では”人間的な教育”をしていたんだな」と考えるようになりました。

企業が「指定する」という気持ちはわからなくもありません。
安全パイを取りたいという部分もあるでしょう。当時の高校が高い求人率を誇っていたのは、どういった安全パイだったからなのか。私は「質の高い人間」を企業が欲していたのだと考えています。
大学生への就職活動で違和感を感じるのは、このあたりなのではないでしょうか。
最高学府である大学だけは、何かそれまでの「学校とは違う何か」があるように感じます。
私の中でそれは「自己責任という名の、人間的教育の放棄」だと考えています。

大学在籍中、私が最も「学んだ」と思えたのは、懇意にしてくださった教授との一対一の対話でした。授業でも、実験でもなく、その年老いた教授との「教育とは何か」に対する情熱の対談でした。
成績も良くなく、何らかの才能があった訳でもない私に「4年次の研究室選びでは、待っているよ」とさえ言って下さいました。残念ながら病気の為に4年次になる前に退学してしまいましたが、私の中の大事な思い出になっています。
学歴よりも、そういったエピソードの方が「聞いて欲しい」と思ったりします。

「子供じゃないんだから、自分のことは自分でやれ」というのは確かに正しいと思います。
大学が過保護である必要は、私も全く無いだろうと考えます。
しかし、それと人間的教育を放棄したような、ある種の距離感を作ってしまうのは、また別の問題だと思うのです。

No.8 mayugeさんが仰るように「名は体を現す」かのような話として、高名な学校では、人間的教育も含めて「信頼できる(と思いたい)」というのが企業から見た本音ではないだろうかと思います。
多くの人の評価を得ているという事実(≒権威)に意味があるかも知れない、という一種の信仰のようなものなのかもしれません。


信仰、という単語が出たついでになりますが、権威にしろ信仰にしろ本来は「人間の為」にあるものです。ルールの為に人がある訳ではない、というものです。
ですから本来信仰が持つ役割は、あくまでも「信仰者(=人間)中心」の為であり、その宗教団体への「悪しき実利的な犠牲」は間違いと言わざるを得ません。
現実的に考えて「あなたは何故信仰をするのか」と言う質問に答えるとするならば、現代社会においては「自らが幸せになる為」でなければ、私は嘘ではないかと思うのです。あくまでも、信者ではなく実践の人……「行者」であるべきだと私は考えます。
信仰をした事で不幸になってしまうようでは、それは間違いだと思います。幸せとは何かという定義はとても難しい事ですが、どんな信仰であれ、現実社会に即して冷静に自分自身を、常に判断していく事は、信仰者と言えど必要な素養だと考えます。

mayugeさんの仰るとおり、権威や信仰には「普遍的な価値がある」からこそ無視できないという部分はあります。しかし、なぜそれが普遍的足りえたかを見誤ってはならないのです。そここそが「人間主義」とも言うべきか、人間的なアプローチがあるかどうかだと思います。
権威が好きだから権威が権威足るのではありません。そこに実質的な人間的価値があるから、それがだんだんと有力となっていくに過ぎないのです。そういった地道ながら有効なものを積み上げていった所に対して、さも「それら全てが自分の力」で実現され「その権利は自分にある」と勘違いしたものが、いわゆる「嫌われるべき権威」というものです。そしてそれは権威などと呼ぶに相応しからず、たんなる権力の魔性に過ぎません。しかしそれは最も恐れてしかるべきものだと思います。
宗教と呼ぶに相応しい宗教ならば、確かに荘厳たる建築物があったとしても、それが目的ではない事が判るはずです。その信仰者が一人の人間として、どうやって幸せになっていくのかを、信仰者同士が真剣に対話するというのが最も重要視されるはずだからです。
そうであるならば、どんな金持ちも、どんな貧乏人も、等しく信仰を持てるのであり、どんな貧相な家に住んでいようと、彼を励ます為に身分に関わらず信仰体験を話すはずです。苦しんでいる同胞の為に、寺院ではなく、彼の家に足を運ぶはずなのです。
信仰は寺にお参りすることが目的ではなく、自らがどう幸せになるかを、この現実社会で見極めていく事を目的としているはずだからです。そういう活動が出来る人達がどれだけいるかが、その信仰の「権威」を作っていくのだと思います。

東大が権威を持っているとするならば、それは先人達が積み上げて言った実績や伝統が、人間として高く磨かれていったという事実があったからなのだと思います。それがある時期から「単に名前の為だけ」となってしまう学生が増えたり、実はそんなに実力がない卒業生だらけになってしまったとするならば、その権威は弱くなっていくはずです。
茂木さんが現在の東大などに対して持っている批判は、この部分ではないかと私は思います。お前達は本当に日本の代表を張るような大学として、世界と勝負できるのか!?という渇なのではないかと思って、意見を読んでいます。


企業としては、どうやってその「人間性」を見極めるのか、わからないままになっている所が多いのではないかと思います。「人事部」なるものが存在し、異なる現場で自らが関わるわけでもない場所の人員を採用する専門機関となって、新卒学生達を見定めていくというのが一般的なスタイルなのでしょうか。
そして、もし「使えない学生」がある部署に配属された時、その彼が実績を出せなかった事の責任は、その部署の長に降ってくるのでしょう。そこに「人事部」の責任は一切存在しない事になります。
責任がなければ仕事は疎かになっていく一方です。そういう意味では、いわゆる「人事部」は不要という事になります。現場現場で面接するのが最も賢いと言わざるを得ません。そうなった時、現場の人々は面接の際どういったことを聞きたがるのでしょうか?
今まさに皆さんが現場で働いていて、人を採ろうと面接をする時に、何を聞こうとするのでしょうか。自分と一緒に働きやすい人なのか、一体何ができるのか、どういう性格なのか、結局こういうことじゃないかと思います。そこに学歴の関係性がどれだけあるというのでしょうか。

私の居た工業高校と、大学新卒の就職活動最前線の違いが、ここにあるような気がします。学歴とは、そういったものではないかと私は思います。