「学歴」とは何だろうか
はたして、18歳の時の入試の成績が、そんなに重要なのか。学歴は、それを持つ者にとっても、持たないものにとっても、やっかいな存在です。さまざまなコンプレックスの原因にもなる。情報ビッグバンで、多くの人が自由に情報にアクセスできる時代に、本当に「学歴」は必要なのでしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。
No.15のtrasqueさん "「何の為に学ぶのか」これを考え抜いて学校生活、学生生活を生き抜いて欲しいなと思います。"
No.16のtomotomoさん"テストに出る出ないを基準にして進めていく受験勉強では答えを合わせることで精一杯じゃないでしょうか"
この2つを聞いて最近見たテレビ番組を思い出しました。番組名は忘れましたが、教育について語り合うものでした。
そこで学力の高い北欧の国々が紹介されていたのですが、驚いた事に、フィンランドでは「テスト」というものが一切無いそうです。
そしてさらに深いと思ったのは、その話を聞いた人のコメントで、
”テストがあるからテストの為の勉強になっちゃうんですかね。”
というものでした。
確かに私たちはテストでいい点を取ろうとして、小中高まで上がり、受験勉強に臨みます。つまりテストに特化した人間となっているわけです。
しかしそれは本当に社会や大学が望んでいる事なのでしょうか?
大学が望んでいるのはちゃんと研究に取り組んでくれる人間です。社会では働ける人が望まれます。どちらもこの先テストなど経験しない人が大多数です。そうまでして、テストにこだわる理由は何なのでしょうか?
大学なら研究室を意識して集まる人が欲しいでしょうから、その研究に見合った知識や考え方、技術を身に付けている生徒を独自に面接や試験で問うべきではないでしょうか?
全国には研究室は山ほどあり、同じ分野でもやっている事は研究室によって異なります。高校時代に1年もかけてテスト勉強する必要があるなら、研究室をよく調べて、自分で訪問してみれば学ぶ意欲も増すばかりでしょう。
さらにこの利点は単に目標が定まってやる気が上がるだけではありません。
目標が明確に定まれば、勉強すべき内容も絞り込む事が出来ます。私の場合は、ユビキチンを医薬品に応用出来ないかと考えた時点で、薬学部生が3年もかけて習う全範囲を覚えなくても、必要な情報をその都度集めてこれば良いだけです。
この情報化社会では、学ぶ目的を明確化させる事が一番効率が良いのではないでしょうか?
「子供をテストで評価する」というのも実はおかしな話です。
子供が良く覚えていたら褒められるべきは先生ではないでしょうか?逆に子供の出来が悪くて責められるべきも先生なはずです。
もしテストを行うにしても、生徒が間違えた所は先生がアフターフォローしなくてはならないはずです。なのに学期末テストや受験勉強ではそれが出来ない。なんせ大学入試に至っては、答案用紙さえ返って来ませんからね。私の通う大学の場合だけかもしれませんが、大学ではテストの答案やレポートも返って来ません。
まさに「先生が生徒を評価する」ためにしか使われていません。
私は以上を簡単な表現で表す事にしました。
先生のすべき事は「知」を与え、子供の「夢」を認める事。
子供は先生の「知」に感謝し、自分の「夢」を惜し気もなく語る事。
ですから、
"「教師とすれ違う時にはかならず元気な声で挨拶をする事!」 というのがまず何よりも重要視されていた"
も当然なのでしょう。
この考えから私は、「時代を変えるのは常に若い世代だ」と確信しました。
だから私は、上の世代の人に夢を語るだけでなく、子供への教育「知」も変えていこうと教員志望の友人にアプローチを開始しました。
私は学習の段階についても考えてみました。
他律自立=他(先生)が律して自(生徒)が立つ。
自律自立=自(生徒)が律して自(生徒)が立つ。
自律他立=自(生徒)が律して他(周り)が立つ。
当人が、この三段階を学習、教育という行為の両面で、「行ったり来たりして」こなしていけば、新たな「知」を生み、それを社会に還元出来るサイクルが回ると考えます。
今の義務教育は最初の段階しか行われていないのではないでしょうか?
「行ったり来たり」は過ちを犯す人間に必要な事です。最初の段階をクリアしてから、とやって上手くいく場合は少ないでしょう。
義務教育で自由度を持って三段階を経験出来るようなシステムになれば良いと思います。