社会保障についてどう思いますか?
そもそも働く気がない人もいると思いますが、働きたくても仕事がないという人が増えている。そういう時代において、社会保障というセーフティネットというのは、どのような意味を持つのでしょうか。
セーフティネットが無ければ、人間はチャレンジすることができません。でもセーフティネットのシステムに依存して怠ける人も出てくるかもしれない。
また、今の日本は財政難に陥っていて、いくらセーフティネットが必要だとしても、それを作るには国民がかなりの「痛み」を覚悟しなくてはならない。生活保護だけでなく、年金も支給年齢を遅らせるということが、さかんに議論されています。
自分の力で人生を切り開く自助努力と、社会のセーフティネットは、どのような関係にあるべきでしょうか。みなさんのお考えを聴かせてください。
今回のお題は、私の知識不足からか、考えがちっとも広がっていきませんでした。
NO.10 motakeenさんの
ただ、セーフティーネットという意味では、社会保障はその一部であって、
社会保障が十分ではない場合、それ以外の形で人々はセーフティーネットを形成するんだなということがすこしづつ見えてきました。
を読んで、このことと関係があるように感じました。
国が社会保障の制度としてできることとは、違うものを今人々は求めているのかな、と思いました。
それは、茂木さんがウォール街のデモの直感、と書かれていた部分にも通じるのではないかな、と思いました。
デモ様子を見た時、私は「エンデの遺言」を思い出しました。NHKの番組を通しての知識ですが、エンデは、人々の生活に必要なものは、変動する貨幣価値とは切り離されているべきだ、と言っていたと記憶しています。そして、その番組では、地域通貨が紹介されていました。地域で賄えるものの限界や、市場に流通する貨幣価値との関係を考えてみても、地域通貨をエンデが語るように、日常生活を支えるような形で実用化することには多くの問題があることは、想像できます。
それでも、そのもとにある、日常生活を利益追求という経済原理で動く大きな力で翻弄するのは、もういい加減やめてほしい、という感情には共感します。
この感情は、茂木さんが書かれていた、根深い問題と関係あるかどうかは分かりません。
ただ、今切実に求められているのは、国の制度としての社会保障とは、少し違う、国というものをどう捉えるかにもかかわってくるように感じました。
国という存在が大きく変化していくなんて、そんなことあり得ない、と思いました。
でも・・・
意外に、ウォール街のデモのような小さな動きが、そこここで静かに広がって、いつの間にか変わって行くものなのかもしれない、とも思えるし、私たちの意識を、国があって私たちがいる、から、私たちがいて、国がある、と少し変えることから始まるのかもしれない、とも思います。
自殺予防に関わっていた方が、セーフティネットは網の目のように、何重にもあって欲しい、これがだめなら、後がない、というのではなく、これがだめなら、つぎはこれ、というように、こぼれ落ちないような細かい網の目のようであってほしい、と言っていました。
網を支えるの太い糸が国の制度であり、細かい網の目を作るのは私たちなのかもしれない、と思いました。