社会保障についてどう思いますか?
そもそも働く気がない人もいると思いますが、働きたくても仕事がないという人が増えている。そういう時代において、社会保障というセーフティネットというのは、どのような意味を持つのでしょうか。
セーフティネットが無ければ、人間はチャレンジすることができません。でもセーフティネットのシステムに依存して怠ける人も出てくるかもしれない。
また、今の日本は財政難に陥っていて、いくらセーフティネットが必要だとしても、それを作るには国民がかなりの「痛み」を覚悟しなくてはならない。生活保護だけでなく、年金も支給年齢を遅らせるということが、さかんに議論されています。
自分の力で人生を切り開く自助努力と、社会のセーフティネットは、どのような関係にあるべきでしょうか。みなさんのお考えを聴かせてください。
私は社会保障のひとつである特定難病疾患の指定を受けておりますので、個人的な数字の話からさせて頂きたいと思います。
規定により、私の現収入では該当する病気に関しての診察や治療・投薬について、「何度行っても月に4000円程度のみを負担すれば良い」というものになっています。
現状で私は、二ヶ月に一度の通院、二ヶ月に一度「レミケード」と呼ばれる薬の点滴、日に12+1の錠剤と日にペットボトル二本分の栄養剤の処方、年に一度程度の腸内検査を行っていて、これら全てが特定疾患への治療行為として対象となります。
特定疾患の票(免許証みたいな感じ)の発行が遅れ、一度通常の保険でいったん支払った事がありますが、その上で四万円近くの支払いになったのでかなり高額です。
また、点滴のレミケードもあまり一般的ではないので、一度の点滴がかなり高額だと伺った事があります。
更に私はこのメルマガが始まるほんの少し前、地震の二日前に入院し手術をしましたので、この費用も特定疾患の助成として賄って頂きました。
(保険を適用し4万円なので、三割負担と考えると二ヶ月に一度は10万円以上助成頂いています。
レミケードは1回で十数万円とも聞いたことがありますが、定かではありません。
追加料金の無い部屋にて、およそ40日の入院と、各種検査、手術、食事代を含め、
その時は月5250円のみの支払いでした。それ以外は助成を頂いたことになります。)
これらを「月に4000円程度払えば」受けられるのが私の社会保障です。
年間で百数十万円もしくはそれ以上の「税金」が使われている事になります。
社会保障はどうしても「コスト」を抜きに語れません。
私はこの話をする事はあまりありません。病気を持っているという点については、個人的に負い目を感じませんが、私の受けている助成は非常に高額になるため「後ろめたさ」を考える事があるからです。
ネットやテレビでも「生活保護の不正受給」等の問題が叫ばれますが、不正ではないにしろ「他より多く税金の恩恵を受けている立場」には変わらないのだと痛感します。
実際ここに書き込むにあたっては割と悩みました。結局お前も守られてるだけじゃないかと言われてしまうのが怖い部分があります。
当然、これらの助成がなければ適切な治療行為は受けられませんし、家族にも更なる負担を強いていたか、私自身これまで生きてこれなかったかもしれないので、受けられるものは受け、感謝を忘れずにできるだけ「経済的に貢献できれば」という思いを日々持つように心がけているつもりです。
=====
生活保護については「絶対に必要な人」もいるのは理解される事ですが、ではその線引きはどうするのでしょうか。
ですので今度は私自身の「実態」について…
現在私は1日8時間、週5日を基本とするフルタイムでの勤務をしています。
厳密に正規雇用ではありませんが技術者としていくつかの現場を任されております。
接客:技術が半々で、基本的に内に篭りっぱなしは不可能な現場で動いているので、何もいわなければ健常者と同様に働けていると判断されます。
日常生活の制限は特になく「気をつける必要のある食品」があり、錠剤などの投薬が必要なくらいで、他は通常通りです。
友人との付き合いで飲みにも行きますし、このようにネットも楽しんでいて、携帯も持ち、ゲームや音楽等の趣味も満喫している状態です。
そういった私が、医療費について多額の助成を受けているという現状。
しかし私自身、それが必要である、とは考えている現状。
生活保護等について憤りを感じる部分は私自身もありますが、さて自分に置き換えると一体どの程度助けてもらえるのが適切なのか、精確に認識はできません。
ところで特定難病疾患は「患者の経済的負担の軽減」が目的の一つである事には変わりありませんが、どちらかというと「研究ありき」の制度とも言えるようです。
特定難病疾患として扱われる為の条件として(おおざっぱですが…
:症例が少ない(患者数が少ない
:原因が不明、特定できていない
:効果的な治療法が確立していない
:長期的な生活への支障がある
というようなものがあります。
「専門の研究チームがあること」というような条件が必要だとも聞いたことがあります。
私の持つ病気よりも圧倒的に珍しい病気で、その為に研究チームが無く、この難病指定に入らないという話を聞いた事があります。(具体例が見つからず、あやふやな情報ですみません)
どちらにせよ対象となる病気以外は特定難病疾患として扱われないので、通常の支払いが発生します。では、私の持つ病気や現状と指定されない病気を持つ人との差がどこにあるのでしょうか。
また、私と同じ病気を持つ人でも私のように健常者と大差ない生活を送れる者と、ほとんど身動きができない人と、その助成内容に変化はありません。
こういった事を踏まえると、ライン引きの難しさが立ちはだかるように思えます。
私の持つ病気については、患者数が増えてきた事もあり、特定難病疾患からの除外や「軽快者」というような一段下のクッションを設ける案などが話題になった事もあります。
患者として「打ち切られてもおかしくはない」という意識は必要かと私は考えます。
=====
さらに具体的に、私の事例を考えてみたいと思います。
私が受けている治療行為は今のところ「飲み薬と検査」が主になります。
それさえ継続していれば普通なので、これについて助成を受けている事になります。
その額年間100万円と仮定します。
この薬は継続する事で「次に手術が必要になるまでの期間を延ばす」ものです。
多くの場合、5年毎に開腹手術などを繰り返すようなパターンになりますが、この投薬をサボるとサイクルは短くなると言われています。しかし続けていれば、手術が必要にならない限り健常者と同等の生活ができます。
人により、サボっていても20年くらい大丈夫だったという患者もいれば、徹底して医者の言う事をきいていても5年ずつ手術をしているという患者もいます。
では存外元気に生活できるので、どこかコストを下げるとするとどうなるでしょうか。
投薬を途切れば、再手術の恐れが飛躍的に上がってしまう。しかし、直ちに容態が変わる訳でもない。
しかしそれ以外の治療行為がある訳でもなく、投薬量を減らす訳にもいかない。
そうなると、年間100万円か、ゼロかという事になってしまいます。
他の人には「健康的」に見えるにも関わらず…
こうした事は生活保護を含めた他の社会保障にも存在すると思われます。
確かに一人一人の状況を精査する事でより無駄を省いた金額に落ち着ける事は可能だと思いますが、その精査を行うコストの方が大きく上回る可能性も否定できません。
=====
私も「発展的に生きること」に共感を覚えます。
正直に言ってしまえば、ベーシックインカムなり、生活保護なりでもし月に15万程度の収入が働かずして入るのであれば、私はおそらくすぐに仕事を辞め、ネットとゲームだけで遊び続ける自堕落な人間になってしまうだろうと自分で考えてしまいます。
(実際、仕事中に「ゲームだけしてたい!」とか考えちゃいますし)
母との話で「俺が一人暮らしをして、この病気を理由にすれば、確かに生活保護は通るのかもしれないよな」と呟いた事があります。
でも、それは何かが違うと感じてしまいます。
私は「生きていたい」と感じます。ちょっとうまくすれば働かずにそれなりの生活を維持できる、というところに生を感じない程度には「生きていたい」と考えてしまいます。
モノ的視点でのセーフティネットは必要ではあるものの、私は「自助」について言えば、精神的(生命力?的)な支えもしくは指標が必要だと考えます。
ちょっと誤解されそうな話ですが、何らかの哲学であったり、宗教であったり、文化であったりといったものは「お金というコスト<以外>」の部分で自助の燃料として働くものではないかと思う訳です。
それは教育によってある程度育てる事もできますし、地域社会とのかかわりは不可欠だと感じています。また、究極的には年齢も関係ないように感じます。
これらは「いざ」という場面での<自助>を促す強力な要素ではないでしょうか。またそれらが全体として深まるのであれば<共助>への影響として効力を発揮すると私は信じたい訳です。
お金はリアルに必要なものですから、「制度」という形でしっかりと明記されたセーフティネットを構築する必要があります。しかし、そうでは無い部分については「人間的な強さ」を日頃から深めていく事で<無形のセーフティネット>を実現しておく必要があるのではないでしょうか。
これらは個人が個人の中だけで完結していても仕方の無い部分です。あまりに単純な例ですが、生活保護を不正受給して自堕落になっている人も、なんらかの縁によって一念発起するかもしれません。そういった縁こそが地域における<人間的強さのセーフティネット>であると私は考えます。
ですから「若い人たちに広がる孤独感」のような報道が本当なのだとすれば、それは<無形のセーフティネット>が弱まった一つの証拠であると思うのです。
会社の事だけしか考えられないような余裕の無い生活は、それらの直接とは言わずとも原因に成り得るのではないかと私は思います。有形のセーフティネットが税金により成り立つものならば、無形のセーフティネットは人間の生命力のようなものの総和で成り立つように考えます。
仕事に携わる事で死んでしまったようになっていては、それこそ社会の損失ではないかと思う訳です。自らガムシャラに働く事で活き活きとする人もいますし、見極めるのはとても難しい事ですが、会社だとか社会人だからという理由で「お互いを励ます存在にはなれない」というのは間違いではないかと思います。
「自分は大丈夫だ」と心から思えるかどうか
そういった確信のようなものを得られるかどうかは、一つの勝負だと思います。
その一つの方法として「まず自分から人に関わろうとすること」から始める、
これを提案したいなと私は考えます。