ネットはコミュニケーションの何を変えたのか?
http://yakan-hiko.com/event.php?id=20120204
この掲示板でもみなさんからご意見を集めて、当日議論する話題の参考にしたいと思います。
メールをはじめとして、ツイッター、フェイスブック、ミクシイなどのSNS、2ちゃんねるなどの掲示板、ニコニコ動画、あるいはソーシャルゲームなどなど、みなさんそれぞれの生活の中でコミュニケーションを取るときに、インターネットを利用していると思います。
それらのコミュニケーションツールについて、率直な感想を教えてください。もちろん社会に対して与えた影響についての考察を書き込んでくださっても結構です。
よろしくお願いします。
ネットを利用していて、
「縁を繋げ続けるのも、切ってしまうのも自分次第」
だなと年々思いを強くしています。
ネットだからこそ、という話ではありません。けれど私にとってはそういった事を学べたかなと思える十数年でした。
相手から嫌われたり… そういう事があるにしても根本的には自らがその人と縁を繋いでいたいと思い、動くかどうかではないでしょうか。ネット上で色々とやらかしているうちに、そんな事を考えるようになりました。
その背景として、
「保留すること」の手間が減り、更に意義が増した…
という面があるのではないかと考えています。
長い友人ではあるけれども… 連絡はしばらくとっていなかった、という友人はみんな持っているものと思います。
直近の例では…
Twitterで何らかの拍子にフォローをしあい、そこから妙に連絡をとる機会が増えた。
そんな体験は多くの人が今まさにしているのではないでしょうか。
私はこのあたりについてどこかで「保留しやすくなった」と表現しているのを見かけて、なるほどと思ったのです。
昔で考えれば、保留の手段は手紙や新聞の告知などでしかできなかったんじゃないかと思います。
またその保留も、相手を限定し、強く意識し、時間を掛け、手間を掛けして成されるものです。
そこに想いの強さはあれども、気軽さはなかなかないなあと思うところがあります。
年賀状なんかはそこらへんが緩くなっている割に、長期的な保留が可能な良い文化だったのだろうと思うのです。
保留とひとくくりにしてわかりづらくなりました…
ここでの保留とは…
「メッセージを時間に依らず読めるようにしておく」行為
のようにお考え下さい。
ネットや携帯が登場して、様々なサービスが出てきました。
コミュニケーションとしては結局この「保留」が、どれだけ手軽になるか、どれだけ「特定の他者への意識」を薄くできるか、を洗練させ続けたのだろうと、今になって思います。
こうやって夜間飛行に書いておく事も、誰かに向かって語っているわけでもありません。
2chやTwitterでも、ほとんど意味を持たない内容でしか発信しない人でさえ「繋がり」はしっかり作っていると思います。
会えば旧知の仲で打ち解ける友人でも、以前までは年に数回のメールだけ…という友人がいました。
昨年久々に会ってTwitterのIDを交換してから、お互い意識的ではないにしろ、お互いの考えを読んでいる状態になりました。
そうなると、たまにしていたメールよりも高い頻度で、かつより内面的に深まった(ように思える)内容のメッセージを交換するようになりました。
メールや手紙は相手を意識したベクトルの強いものであるにも関わらず、それらが薄いTwitter(や、SNSの日記など)に「機会」の面で下回り、それが思うよりも強力な「繋がりへの影響」になりえるのだな、と感じる訳です。
ベクトルの強いメッセージが有効ではない…
という話ではありません。
時に一体一の真剣な対話は必要ですし、真剣さを現す為には、やはりそれなりのベクトルはなければなりません。
ただ、Twitterだとかの体験を重ねるうちに、「縁が切れる」のは自らが求めなくなるからだと考えるようになりました。
ベクトルがほとんど向かず、手間もかからないメッセージを「相手が読めるように保留しておく」だけでも縁は実現するからです。
Twitterでは相互にフォローしておくだけの事です。
言ってしまえば、いつのまにか縁が切れてしまったな…
というのはその程度の事もやらなかった自らの行動の結果とも取れます。
深い話も、縁が繋がってなければ出来ません。まずは繋げておく、という事を「軽い」と批判する前に、それは能動的で自ら求める行為でもある事に着目したいと、私は思います。
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十年以上前、若い人がネットで知り合った人と会い事件になったというニュースが目立つ時期がありました。
当時の私は高校生で、なんとか親に買って貰ったパソコンで、ネットに大ハマりしていました。
ネットで知らない人と知り合う事… に対して両親も心配の色は隠しませんでした。
掲示板やICQ(今で言うメッセンジャーのようなソフト)で遠くの人と知り合う、それも年上…
23時にモデムが怪音を鳴らして接続するまでの数十秒のワクワク感は、それはもう冒険的でした。
ICQに届く向こうからのメッセージ!
オンラインでなくとも、送っておけば接続時に届くのは今のSkypeと同様です。これも保留の手軽さですね。
これらの体験はかなりエキサイティングって奴でした。
さて、いざその知り合い(大阪の大学生二人組でした)が東京に来るので会ってみようと言う事になります。
それまで半年以上メッセージのやりとりをして、自分なりに見極めたつもりではあったものの、心配になり改めて両親に相談しました。
ニュースではネットの出会いが悪のように叫ばれていた時節です。
両親ははじめ驚きましたが、半年間のやりとりを大雑把に伝え、待ち合わせの内容などを伝えると快く送り出してくれました。
当然気を付けるように言われ、かなり心配していましたが「人と会うこと」が悪なのではない、というような事を言ってくれた気がします。とにかく堂々と「オフ会」ができました。
大学生の二人は、高校生である私にとてもよくしてくれました。
今思うとかなり背伸びをしていて、それが見抜かれていたなと恥ずかしくなります。
それからネット上で様々な(ほんと様々な)人と知り合い、実際に会ってきました。
ネットゲームで知り合って、もう十年近くになる人とも、お互いそのゲームの事はやらずにすっかり忘れてますが、たまに食事したりしています。
毎月何かしらで家まで遊びにいくような同世代の友人も、有難いことにできました。
ネットの出会いで起こる事件そのものを否定はしません。それらの対策や周知は必要ですし、警戒すべきものです。
今や当時のニュースのようにネットの出会いが悪だとする話は少なくなりました。
人に会いにいく事は悪ではない…
当時の両親の判断に私は今でも感謝しています。
以下は2001年に書かれた記事です
http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20010212/1/
今読むとよくもこれほど予測したなあと驚かされます
人間関係が希薄になるという予測もあったようですが、結局は個人が「縁を繋げよう」と能動的になるかどうかだと思います。
ベクトルの強い方法が封印された訳ではないので、ネットの良さを活用する事もできると考えると、以前より希薄にはならない(ようにもできる)と思います。
ネットで変わったコミュニケーションは「保留の方法」という話でした。長々とすみません。