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ある課題をするとして、苦労をして満点を取った人と、苦労をしないで満点を取った人では、どちらが偉いと思いますか?

「苦労をした」という経験は、別の課題に取り組む際の粘り強さを培うことになるかもしれません。

一方、「苦労をせずにできた」という才能ある人が、さらなる難しい課題に取り組んだときにこそ、奇跡的に素晴らしい仕事が達成されるということも言えると思います。

みなさんは、「苦労」と「才能」、そして「結果」について、どのように考えますか?

楽しい議論をしましょう!

NO.6   masami 2012/02/24 11:39:16 合計 0pt.

私も偉いという言葉をどのようにらえようかな、と考えました。

課題や状況によって違うので一概に判断できないでしょうが、単純に考えてみました。

同じ課題を達成した人のうち、苦労した人と、簡単にできた人、のどちらが高く評価されるかな?と考えると、日本では一般的に、苦労した人の方が高く評価されるような気がします。

子どもの頃、観光地に、なぜか「努力」「根性」という盾が売られていましたが、それらが尊ばれる土壌があった証拠かな、と思います。

何かが簡単にできれば、要領がいいだけでしょ、もっと努力しなさい、という言葉が返ってきたように思います。

その人にとって簡単な課題から、段々難しい課題に挑戦できる仕組みがあれば、こんな言葉も励ましになるでしょうが、同じ課題を皆同じようにこなす仕組みしかなければ、簡単にできる人の才能は、まわりに関係なく勝手にどんどんやっていける人でないかぎり、伸びていかないと感じます。

義務教育について考えてみると、日本に飛び級がなく、落第が忌避されるところからも、普通の人よりも簡単に課題ができる人が持つ才能を伸ばす、という考え方は指導する側にはないのかな、そして、苦労する生徒にはひたすら努力を強いるのかな、と感じます。

「これを達成するのにすごく努力した。」という人に、ねぎらいの言葉がかけられるシーンは容易に想像できますが、「簡単にできた。」という人に対しては、そのようなシーンよりも、比較的冷淡な反応を想像してしまうのは私だけでしょうか?

以上は、私が周りから感じた評価です。

私自身は、子どもの時にこのように感じました。
(楽器演奏など、スキルを磨く系の課題ですが…)
努力しないで簡単にできることは、自分がなぜ簡単にできるかわからないまま、できてしまうので、そのあともっと努力して上手にできるようにいろいろと工夫するのが難しく、できただけで終わってしまう。

一方で、最初になかなかうまくいかず、いろいろと苦労してできるようになったことは、工夫するコツや少しずつ前に進む楽しみが励みになるからか、さらに先に進んでいけるようになり、結果として簡単にできたことよりも、良い結果を出せる。

最初から簡単にできる、とうかれてはいけない。要注意!


こう書いてみて、これも、日本という国にいるからならではの体験かもしれない、と思いました。自然に肯定的に受け止められると感じたことをやっていた、単純な子供だったのかもしれません。
そして私の勉強机には、「根性」という盾が置かれていました。(つまり、根性が足りない、とみられていたのでしょう)

どちらが偉いか、には答えられないです。
けれど、どちらの人も、「偉い、偉い」と“素直に”受け入れられて、さらにステップアップすることを後押しする社会であって欲しいと思います。

ある人ができることが才能、その才能を使って苦労して出した結果を、周囲との相対的な評価だけではなく自分の中で評価する基準を持っている人は、どんな環境にあっても幸せだと思います。