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ある課題をするとして、苦労をして満点を取った人と、苦労をしないで満点を取った人では、どちらが偉いと思いますか?

「苦労をした」という経験は、別の課題に取り組む際の粘り強さを培うことになるかもしれません。

一方、「苦労をせずにできた」という才能ある人が、さらなる難しい課題に取り組んだときにこそ、奇跡的に素晴らしい仕事が達成されるということも言えると思います。

みなさんは、「苦労」と「才能」、そして「結果」について、どのように考えますか?

楽しい議論をしましょう!

NO.9   mt0633 2012/03/01 20:33:57 合計 0pt.

現在自分が苦労している者として、とても興味深く拝見させていただきました。

苦労という場合、やはり自分の事ですから、自分にとって厳しい環境や難しい問題に取り組む時、自分のこれからの見えない将来につながる事を信じる事が、苦労を単なる苦しみではなく、産みの苦しみに変えることとなります。

タラントの事を書かれている方がおられました。聖書の中でのタラントの用い方は、偉い偉くないという事ではなく、一人一人の生き方が、神様との関係においてどうであったか、という事を問うています。ですから、一タラントを使わなかった人は、その理由を主人が悪い人だったから、ということを言って責任転嫁しています。しかし彼は雇われているものであり、少ないものであったかもしれませんがタラントをすでに受け取ったのです。その時点でその人の責任があったのです。彼が最初からその主人の元を離れるとか、タラントを受け取らなければ、それまでだったでしょう。しかし、主人がいない間も与えられたものは使わず、主人の家でのほほんと過ごしていたのです。今の私たちの観点で言う努力や苦労というものが単に結果を見るだけのものであれば、一タラントしか貰わなかった僕と同じで、結果を恐れるあまり、プロセスを度外視してしまって、タラントを穴に埋めることになるという事です。

反対に、私たちから見れば、「え、それで努力しているって言えるの?」という事や場合が沢山あります。しかし、自分の努力や苦労が他人と比較され続けるのであれば、それもまた非常にやりにくく、辛いものでしかないのではないでしょうか。しかし自分の中での努力を見続け、高い目標に向かう気持ちを持ち続けることによって、初めに戻りますが、その苦しみが大きく自分を変えるものになるでしょう。私は今、これまで自分が逃げ続けていた事と向き合う場所におかれています。非常に苦しいのですが、この苦しみは反対に何らかの報酬のような事も生み出しており、自分の経験値をこれまでと全く違った観点から得られています。非常に貴重な経験と感じています。だからといって苦しみが無くなる訳ではありません。

苦労して満点を得た人と、苦労せずして満点を得た人。結果は同じでもそれぞれにプロセスがあり、それぞれに結果にたどり着く何かがあると思います。私はどちらも偉いと思います。苦労しないで結果を得る人も、今後を考えるとき、決して苦労しないかと言えば、それはだれにも分かりません。しかしその人が、苦労する事を嫌うのではなく、苦労がくろうと感じないだけなのかもしれないし、そうした場合、先ほどのタラントの話しを借りれば、その人は非常に大きなタラントを持った人、と解釈していいと思います。多く持っている人は多く得ることができます。しかし少ないからと言って、嘆く必要も比較する必要もなく、自分は自分です。努力しなくてたどり着く人も偉くて、努力してたどり着いた人も偉いと思います。

もし、苦労する事が他人と比較することによる苦労なら、ちょっとそれは間違った苦労の仕方かもしれません。