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ある課題をするとして、苦労をして満点を取った人と、苦労をしないで満点を取った人では、どちらが偉いと思いますか?

「苦労をした」という経験は、別の課題に取り組む際の粘り強さを培うことになるかもしれません。

一方、「苦労をせずにできた」という才能ある人が、さらなる難しい課題に取り組んだときにこそ、奇跡的に素晴らしい仕事が達成されるということも言えると思います。

みなさんは、「苦労」と「才能」、そして「結果」について、どのように考えますか?

楽しい議論をしましょう!

NO.11   trasque 2012/03/04 16:40:15 合計 0pt.

皆さんの投稿をみて、改めて気付かされることが沢山ありました。masamiさんやmongkok93さんのように「偉い」の定義がどうなるかにもよるなあと思います。

はじめに試すような投稿をしておいて締切ギリギリまで反応せずにしまっておりました…反省しております。

以前から私の病気等については書き込んでおりますので深くはここで言及しませんが、今回の議題のような事がありましたのでお話させて頂ければと思います。
私が六年前に難病の告知をされた時、またその後は実際に色々大変でしたが、あまり精神的に落ち込んだり追い詰められることはありませんでした。
若干の強がりはありますが、なってみてよかったかな?なんて思う事もあります。
そんな中「病気を乗り越えたんだ」なんていう妙な自信を持ってしまったりもしておりました。

ある時、Twitterで同病の方と相互フォローになりました。彼は<私から見ると>悲観論者でした。それは完全に、私の想像力不足による主観でした。彼の病気との向き合い方に<もったいなさ>を私は感じていました。

「無駄なポジティブさを良しとは思わない!」と彼は時々言っていました。私は、自分の<妙な自信>に自信を持っていました。ですので、彼になんとかそれを伝えようと考えたのです。病の克服は考え方によって可能である、と。

結局、彼とのフォローは解除されてしまいました。それをきっかけにして、私はこの<根拠なき自信>がどこからくるものなのだろう、と悩み始めました。「僕は、本当に病気を受け止めたのか?乗り越えたのか?」

ある課題…… ここでは「病の克服」だとすると、私は告知された段階で客観的には「満点に近い」心の状態だったのではないかと思います。自分で言っちゃうのもナンですけれども、病理的な克服とは別に心の面での克服という問題は確かに存在すると思うからです。

しかし、私には自ら病になってさえ<病でまさに苦しんでいる人>の心がわからないのです。同病の彼が思う無駄なポジティブさへの嫌悪を理解できませんでした。

ある時から私は自分の体験を活かして誰かの励みになれないかと考えるようになりました。それが「課題」だとする時、さっさと病を受け止めてしまったので、今度は逆に満点ではなくなってしまいました。

私はあまり努力なくして、私自身の病を受け入れてしまいました。大変な思いをして、受け入れるまでに非常な努力を要した人もいると思います。
私は自分と彼等を比較できません。自分にとっては家族など様々な要因からしっかり歩き出せるようになりました。でも、それでおしまいでいいのだろうかと悩みます。

悩んで折れてしまう事だってあります。そういう経験をしてこそ得られる境地もあるかと思います。なので、どちらが偉いのかは私にはわかりません。
「ある課題」が変わる必要すらあるのかもしれないとも考えます。その課題の遂行が正しい事なのか。誰もわからないなんて事も珍しくはありません。

ペーパーテストの例ではじめに投稿しました。与えられた課題に邁進できる素養は大切です。満点を取れる事は偉大だと思います。しかし、課題には目的があることを念頭から抜け落ちてしまわないようにしなければ、どちらの例であったにせよ、徒労となってしまいかねないと思うのです。