「今」のことを考えて行動すべきか、「未来」のことを考えて行動すべきか
次世代のことを考えて社会設計をしたとしても、次次世代にとってそれが正しいかどうかは分かりません。200年後、300年後にとって「何がベスト」なのかを考えるのは非常に難しい。そうであるならば、「今、ここ」が幸福になるように生きることの積み重ねをしていくしかない、という考え方もあり得ると思います。
私たちは、どの時点のことを考えて社会を設計し、個人的な行動をすべきなのでしょうか。
みなさんのご意見をお聞かせください。
gotoichiさんの
「そもそもの目的に価値があるのかを再考すべきだと思います」という点に”そうだ!”と思いました。
表題の「今と未来」どちらを考えるべきかという点に”こっちだ!”とハッキリ言えないのがもどかしい所なのですが、私の中での結論は”どちらも同じ軸を持った両輪である”となっています。
本文の中で「~個人的な行動をすべきなのでしょうか」とありますので、それを考えてみたいと思います。
「社会の設計」は一体なにで決まるのか、と考えた時には様々な要素があります。実際に決議を取るのは議会だったりする訳ですが、そこには選挙や世論と言ったものもあります。 「その時!歴史が動いた」のように、ある一点である一人の活躍によって大きく転換したという事もあるとは思います。しかし、もっと根源的に大切な事は他にあると思っています。
それは「社会の設計」に対して真剣に・希望的に考えられる人が、どれだけの割合で存在するか、という部分です。
乱暴な仮説になってすみません。
もし 「自分ひとりが選挙に行ったところで意味はない」 とか 「どうせ役人・政治家の思うように動いているに過ぎない」 といったような諦めの人達が5割・6割と増えていった時、その後10年50年を形作るのは間違いなく彼らである事に間違いはありませんから、「社会の設計」が良い方向に行くだろうかと考えると中々難しいと思います。
反対に(実際的にどうなのかは別として) 「もっとこんな理想に近づけるはずだ」 とか 「微力でも勉強を重ねて貢献していこう」 と思える希望的な人達が5割・6割と構成されていくならば、同じ出発時点を見たときに「より良い社会の設計に向かいやすい」のは後者ではないかと思う訳です。
理想論だし、幻想だといわれてしまえばそれまでなのですが……
100%そんな「力のある人達」で構成される社会などはありえません。極論です。
でも、その<実質的な能力>を培っていける人達の割合が増える事はマイナスにはならないと思っています。まったく目の前には見えないのかもしれませんが、私はかなり確実なものだと思うのです。
ですから「どんな個人的な行動をすべきなのか」という点について、私は”一人にでも多くの人と会い、臆せず語っていく”ということが大切なのではないかと考えています。
話す内容が大きくなるほど(それこそ「社会の設計」など)、友人でさえマジメに話をするのは難しくなる場面があります。時として馬鹿にされる事もありますし、まともに取り合ってもらえない事もあります。内容が突っ込んでくると、思想を批判されたりする事もあるかもしれません。
だから”語っていく”のはとても勇気が要る、難しい作業だと思います。
「今」生きている私たちは、この瞬間地球というステージにいるメンバーともいえます。
毎日同じ電車に乗っていても、ほとんど同じ顔を見ないほどにたくさんの人達がいます。毎日色んな”新しい出会い”はありますが、それでも新しい人間が出てきた訳ではなく、同じステージに居る事に違いはありません。
その同じステージの中で、どれだけの人を”動かして”いけるかというのが「社会の設計」に影響していくのだと思います。全然見えなくて、もの凄く地味な話ですが、私はそう信じております。
ですから、見るべき「未来」は”今この瞬間”であると思います。
誰かを動かすという事は、誰かが動かねばなりません。語ったり、行動で示したり。
例えば茂木さんのような影響力がある方の言葉や行動で、多くの人が動くという事もあると思います。
しかし、ある人を動かせるかどうかという問題に、茂木にさえ会わせてみれば大丈夫という保障はどこにもありません。そのある人を動かせるのは他でもないその”友人”かもしれないからです。
これだけ多くの人がいる。そして”希望的な人”を少しでも多くしていく。その為には、今おつきあいのある友人と真剣に語っていく。新たな友人と出会い、また語っていく。そういう”能動”が必要だと思います。
人を動かす為にする”語り”はとても難しい事だと思います。
ですから常日頃から様々な事に心を砕かねばなりませんし、あらゆる体験を無駄にしてはならないと感じます。究極的に捉えれば、どんな問題や壁もその為の”経験値”になりうるのではないでしょうか。
どうしたら”その友人”が動くのか。真剣に考え、悩んで語ろうとする時、ただ正しいと思う方向へ無理に持っていこうとする短絡さはなくなると思います。(そういう必要がある場合もあるかもしれませんが)
こんな話をしてみようか。もっと仲良くなった方が良いかも知れない。今は自分の実力をもっとつけねばならない。これらは全て「今」必死に考えるものですが、それは自分と友人の”ちょっと先の未来”を見据えたものですし、それがずっと繋がって「社会の設計」という大きな未来にも繋がっていくと思います。
抽象的な話ばかりですみません。
私が小学生くらいの頃、若い人を指差して「今の若者は今さえ良ければいいようだ」と揶揄されていたように記憶しています。大人になった時にはどちらかというと「今を大事にするんだ」という話が出てきていて、いつからそんな風に変わったのかな、なんて思う事もありました。
しかし、それはただ表現が反対になっただけではないのだと思いました。
「今さえ良ければよい」という言葉の中には「自分さえ良ければよい」という言葉が見え隠れしています。刹那主義的で現金な欲望と言いますか。とにかく目先の利益のようなものに目が眩んだような事を表現した話だと思います。
それに対して「今が大事なのだ」という言い方は、そういったニュアンスがありません。あくまでも先のことを見据えた今という意味だと思います。
ただ「今が大事」というその中身は、もっと煮詰めていかねばならない事だと感じます。
gotoichiさんが言うように「未来を勝ち取るための今」として今を犠牲にする方向ではいけない様に思えます。我慢や忍耐が必要である場面は必ずあると思いますが、犠牲であってはならないかな、と。
そこで「今が大事」という言葉に、もう一つ意味を加えて”誰かのために”という思いが加わればとても良いものになるのではないかと思います。そのことで、今という瞬間に”何をするか”も大事なのですが、今という瞬間の”密度を上げる”という視点が、生まれてくるのではないでしょうか。
一人の人生において「今」が実現しているのは、まぎれもなくその一人以外の様々な要因が繋がって支えているからです。産まれた瞬間からそんな今の瞬間を連続的に生きているものだと思います。親があり家があり食べ物があり。ですから「今」のすぐ次以降の連続的な未来を実現するのは、自分以外の様々な要素だと思います。それをどんどん良くしていこうとする動きが”誰かのため”ではないかと考えます。
今を燃え尽きるように生きられたなら、どんなに幸せだろうと考える事があります。
自分の人生が最後どのようになってしまうかは分かりません。それでも最後に「俺はやりきった。この世界を少しでも良くしてやった。」とか言えたなら最高だなあと思います。
そういう最後という「未来」を見据えた時、やるべきことは「今」をどれだけ燃え尽きるようにしていくか。ではないかなあと、最近考えている訳です。