責任を取るとはどういうことか
企業の不祥事などが起きると、社長が出てきてテレビの前で頭を下げるというのがお約束になっています。しかし、はたしてそれで責任を取ったということになるのでしょうか。
あるいは、何か問題が起きた場合に、その組織のトップが辞めるという形で責任を取ることがあります。しかし、辞めたからといって、事態が解明され、状況が改善されるとは限りません。はたしてこれで責任を取ったと言えるのでしょうか。
損害を与えたら、その分を賠償するというのが民法上のルールとしてはあります。それで公平さが保てる場合もあるし、とても納得ができないという場合もある。
このように、「責任を取る」というのは、よく聞く言葉でありながら、実際にはなかなか難しい問題でもあります。
あるべき責任の取り方とは、どのようなものなのか。みなさんのご意見をお待ちしております。
あるいは、何か問題が起きた場合に、その組織のトップが辞めるという形で責任を取ることがあります。しかし、辞めたからといって、事態が解明され、状況が改善されるとは限りません。はたしてこれで責任を取ったと言えるのでしょうか。
損害を与えたら、その分を賠償するというのが民法上のルールとしてはあります。それで公平さが保てる場合もあるし、とても納得ができないという場合もある。
このように、「責任を取る」というのは、よく聞く言葉でありながら、実際にはなかなか難しい問題でもあります。
あるべき責任の取り方とは、どのようなものなのか。みなさんのご意見をお待ちしております。
責任をとる以前に、責任を追求されるような問題を起こさないことが、真の意味での「責任」だと思います。私は建築の仕事を行っていますが、建築関連の法令は、不具合の発生を未然に防ぐという側面と、不具合を発生させた場合の罰則という側面の二本立てです。おそらく他の法令もだいたい似たようなものだと思います。しかし、その法令にも落とし穴があります。即ち、不具合を未然に防ぐことの大前提として、法令の縛りを受ける者が、やるべきことを適切に行っている、というお約束があるのです。具体的な例をあげると、構造計算においては荷重条件を適切に設定しているとか、コンクリートを打設する際には意図的に水を混入(いわゆる「シャブコン」)していないとか。建築確認や検査を行う自治体の方達も、そんなところまで突っ込んで確認や検査を行うことは不可能です。「適切」かどうかの確認というより、「適切」なことがなされているだろう、ということの判断にしか過ぎません。よって、「責任」という言葉は、その者が諸々の問題に対して、普段からいかにして誠実かつ確実に対応していくのかということを表しており、「責任をとる」ということは、やるべきことをやるという、当たり前のことを表しているのだと思います。謝罪する暇があったら、発生した問題を解決するために最大限の努力をする方がよっぽどましです。謝罪はあくまでも国民感情を抑えるための対社会的なバリアーに過ぎません。