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責任を取るとはどういうことか

企業の不祥事などが起きると、社長が出てきてテレビの前で頭を下げるというのがお約束になっています。しかし、はたしてそれで責任を取ったということになるのでしょうか。

あるいは、何か問題が起きた場合に、その組織のトップが辞めるという形で責任を取ることがあります。しかし、辞めたからといって、事態が解明され、状況が改善されるとは限りません。はたしてこれで責任を取ったと言えるのでしょうか。

損害を与えたら、その分を賠償するというのが民法上のルールとしてはあります。それで公平さが保てる場合もあるし、とても納得ができないという場合もある。

このように、「責任を取る」というのは、よく聞く言葉でありながら、実際にはなかなか難しい問題でもあります。

あるべき責任の取り方とは、どのようなものなのか。みなさんのご意見をお待ちしております。

NO.8   masami 2012/04/13 13:19:35 合計 0pt.

「責任を取る」というのは、よく聞く言葉でありながら、実際にはなかなか難しい問題でもあります。

本当にそう思います。責任の所在って本当に明確にできるものなのかな?と思います。
「責任をとる」と言う言葉自体に、きれいに納まるはずのないものを、体裁よく整えましょう、という意図が含まれているようで、私は好きではありません。

このお題に関連しているように感じる今日の内田樹さんのツイート‏ @levinassien

すべての政策は未来予測を含んでいるので、「絶対に正しい」ということはありません。常に失敗のリスクがある。統治者の仕事は「失敗する可能性についてのできるだけ長いリストを作ること」と「プランAが失敗したときのプランBを用意しておくこと」です。

誰かを処罰して責任を免れるのは「プラン」とは呼びません。

日本の総理大臣が頻繁に変わるのは制度が合理的だからではなく、「失敗したときのプランB」を用意する習慣がないからです。「私の政策は失敗だった」という宣言を他人に指摘されるより早くなせる人間だけが「処罰」される前にプランBにシフトできます。

政策だけではなくて、あらゆることに通じるかな?と感じます。
このツイートの言葉を借りて私の考えを書いてみます。

プランBを思いつけなかった人が辞めることが責任をとったことなるとは思わないし、プランBを思いつけなかった人に責任をもって後処理させることも、起こった問題を解決するのに最適な方法とは思えません。

何か問題が起こったとき、私はその問題に関わり得た人すべてに責任があると思います。
そこには、プランBを思いつけない人に、その仕事を任せた人たちも入ると思います。

一旦問題が起こったとき、そこで、だれに責任があるかを云々することは、問題解決に何の役にも立たないと思います。深刻な問題であればあるほど、責任の所在を追及している間に、問題解決のために自分の能力を発揮できる人たちが集まって、努力すればいいことだと思います。私には責任がないから、と自分の能力を出さずに傍観していて、幸せになれる人っているかな?と思います。

あ、これ、いじめの構図と同じかな?と思いました。
傍観者もいじめに加担している。
これはもう、常識でしょうか。

揃って頭を下げる謝罪会見は、マスコミとテレビ視聴者が作り上げた純粋に形だけの謝罪だと感じてます。あの会見を見て、謝ったからいいだろう、と感じる人がいるのだろうか?と疑問に思います。

責任の追及、責任をとる、謝罪会見
ここら辺のことは、これらが必要だと感じる人たちの間でくるくると回していればいいのではないでしょうか?

そんなことにかかわりたくない人たちが、責任についていろいろ言いたい人たちに邪魔されることなく、協力して実際の問題解決にさっさと取り組めるような社会であって欲しいです。