専門家の知見と素人の集合知は、どちらを重視すべきでしょうか?
原発の問題も、原発の専門家が行う判断に任せるよりも、多くの人が経験や直感から考える懸念などをもとに判断したほうが、より質の高い意思決定につながるという意見もある。
政府の政策決定も、これまでは専門家を集めた有識者委員会を作り、そこでの議論を意思決定の参考にしていました。でも、もっと直接的に国民の声を吸い上げたほうが質の高い政策が作れるのではないかという声もあります。
反対に、専門家でなければ分からないこともあるので、やはり彼らの意見を重視すべきだという意見もあります。
国民一人一人からの意見を吸い上げることが技術的に可能になっている時代において、専門家の知見と素人の集合知のどちらを重視すべきでしょうか。みなさんのご意見をお聞かせください。
「どちらを重視すべきか」という問いに対して、こちらという答えにならずに恐縮ですが……
集合知とは「証明・検証をする場」ではないかと思います。
専門家は一体何が本質なのかということを常に求めている人ではないかと思います。
出家したお坊さんと、在家の信者のような関係でしょうか。
教えの研さんや例えば古文書・遺跡の解明など専門的に進めていく人がお坊さんだとして、そういったことは専任でなければなかなか難しいですが「実際生活」の仕事とはまた異なります。ですから在家の信者からお金を頂いたりして生活を成り立たせ、本来の業務に専念する訳です。
一方在家の信者は社会を回すための仕事があり生活があり、お坊さんの教えを実践はできてもなかなか研究はできない。だからお坊さんの話を有難く聞いて、実社会で活かそうとする。
どちらが欠けても、彼らにとって大事な「教え」は途絶えてしまうし、実社会に現れない訳です。
工場で品質管理によって設計された作業工程と、実際に携わる工員の判断のような関係でしょうか。
必要な手順書を作成し、定められた品質をクリアする為の内容を計算したりして工程を作る訳ですが、それには専門的な知識が要ります。しかし、実際に作業をしてもらうにはまた別な技能が必要だったり、品質の研究に専念しなければいけない人がいたりして、同じ人がやる訳にはいきません。
工場で実際に作業してみると、なんだか効率が悪いとなったり、思ったよりも危ない作業だったりという事がいくらでも起きてきます。作業員の技量が上がってきて、能率を上げようと仕事の密度をどんどん上げてしまうこともあるかもしれません。
そういう時に、管理するほうが法規制などから改めて指示をしたり、手順書を見直したりする事もあります。
どちらの立場にせよ、お互いに見えない部分があり、見えてくる部分があります。結局はどちらが欠けてもならない<役割>ではないかと思う訳です。
「一人一人の意見を吸い上げられやすくなった」のであれば、それこそその吸い上げた「集合知を専門家にぶつける」チャンスが増えたと考えられるのではないでしょうか。
お坊さんの例でもそうなのですが、これまでともすれば「専門家」に対してなんとなく権威を(集合知の側が)感じていたのではないかと思います。たとえその専門知識(本質)が正しかったとしても、それを証明する場がなければ、また活用する場がなければ、あまり意味がありません。
集合知になりえる大多数が「実質的に」実践し結果を残す。だからこそ本質を求めようとする人達の行動が報われる。それによって有効活用できるようになる何かが増える。そういう相互作用が基本にあるものだと、お互いに理解しあう考え方が大事ではないかと私は思います。
お坊さんも在家信者も、裸になれば同じ人間で、普通なら対等です。
なんだか感じる権威を、本当に勘違いして偉くなっちゃったお坊さんという例も過去にたくさんあったと思います。また、信者側も「あの人は偉いのだ」となぜか思っちゃって色んなことをどっかに丸投げしてしまったという礼も過去にたくさんあったと思います。
どこかで(私を含む)庶民が「専門家は偉い」のだから、彼等のせいだ、自分達は悪くない、といったような状態になってはいないだろうかと思う事があります。理想はなかなか難しいですが、集合知となりうる私たちは結局、日々「証明」していかねばならないのではと思う訳です。
しかしそうは言っても悠長に言ってられない場面というのはいくらでもあります。ですから私は、その時々状況に応じた「指導者」は必要だと思っています。集合知が証明した(と思われる)事を、専門家にぶつけて新たな反応を探るという時に、まずは進めて見なければどうしようもならない場面は必ずあります。
集合知全体を勝手気ままにしておけば、何がどうあろうと、常に賛成反対が入り混じる事となります。
なので「今とりあえず決まったことは決まったこと」として、全体でまずは強力しようという流れを作り出す役割を持つ「指導者」がいなければならないと思うわけです。
それはちょっとした事業かもしれないし、国全体にかかわる規模かもしれないし、一人だけじゃないかもしれません。指導者というと大仰なので、補足として……