日本人が個人として自立するためにはどうすればいいのか?
もの、之を独立自尊の人と云ふ」。これは福澤諭吉の言葉です。でも、明
治以来、日本人の「独立自尊」はまだ達成できているとは思えません。ど
うしたら日本人に「独立自尊」を根付かせることができるのか。言い換え
ると、「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか」。前回の「組
織と個人のあるべき関係とは?」から引き続いて、議論をしていきまし
ょう。
勇んで投稿して一番になれるか。そんな大人にとってときめきがある掲示板です。今回のテーマ『日本人が個人として自立するためにどうすればいいか?』
私の考えでは「0を受容すること」です。
20年も前ですが私はアメリカの高校に1年留学しました。
英語の授業で「ブッダの一生」というような本を読んで授業をする
と言われて必死に読んだのですが 私の英語力では1週間後の授業までに全部を読むことはできませんでした。
私は発言することはできないと思い込んでいましたが、
私より上手がいて、1ページも読んでいない生徒が1名。
私の驚いたことに、次週には読んで参加するようにと伝え、
彼に1番に意見を求めました。
彼は 仏教については全く知識がないので、日本人である私は知ってイいるだろうから話を聞きたいと言いました。
その頃仏教に関心のなかった私は頭が真っ白になったことを鮮明に覚えています。
私の知っている仏教は葬式でお寺に行ってお経を聞くだけで、そのお経の意味も知らない。ついでに、お寺に月に一度通う祖母もそのお経の内容については全くわからないのではないかということをいいました。
教会に通う人が多い彼らには牧師の説教の内容が全くわからないことはないので、ある種のセンセーションでした。
日本人が個人として自立するためには、教育が大変重要な役割を占めていると思います。
現在のように小学校から中学まで指導要綱にがんじがらめになっている授業では賢い個人を作るのは難しいでしょう。
指導要綱はあってもいいのですが、必ず日本全国同じように教育しなければならないというような教育は賛成できません。生徒も先生も、いろいろな環境で生活しての個人であるわけですから、基礎学力の点では同じものを目指しても、人が違えば全く違う思考があるような教育であって欲しいと思います。
多様性を受容できる先生が多くなり、集団となった時の子供が様々な意見や考え方が持てると思うのです。日本人は何かを決める時に既に結論ありきの方が多くはないですか。違う意見を持つことを恐れる。色々な意見があり、結論や解答を毎回求めない。「0を受容する」最初から正解を目指さない。人と違う意見を持つことに誇りを持てる。それが「独立自尊」に行くまでにはまだ何かあるような気がしますが、自立へ向かう一つの道ではないかと思います。