あなたが意見を変えるのはどのような時ですか?
僕は現在、エネルギー安全保障の観点から原発容認派です。けれども原発反対にならないとも限りません。確かに事故の危険性や人々に与える不安を考慮すると、「本当に原発容認でいいのか」と判断は随時揺れ動いています。逆に、「原発は絶対にダメだ」と言っている人が、燃料需給が本当に切迫して、にっちもさっちもいかなくなってきたら、「多少のリスクはあっても利用できるものは利用すべきだ」と考えを変えるかもしれない。でもそれでいいと思うんです。絶対に意見が変わらないという人ばかりだったら、それはむしろとても危険なことのような気がします。
そこで今回みなさんに聞いてみたいのは、「どのような時に、どのようなことをきっかけとして、自分の意見を変えますか?」ということです。原発問題や消費税問題など、具体的な議論について述べていただいても結構です。
ご意見お待ちしています。
そこで今回みなさんに聞いてみたいのは、「どのような時に、どのようなことをきっかけとして、自分の意見を変えますか?」ということです。原発問題や消費税問題など、具体的な議論について述べていただいても結構です。
ご意見お待ちしています。
それは自分の意見を通すことで
誰かに迷惑を掛けるかもしれない時
原発再稼働しないで 停電になった場合
特に命を奪われる人がいるかもしれないと考えると
無理に再稼働反対を押し通すのはどうかなと立ち止まります。
再稼働した場合の周囲の放射能汚染とそこで働く人たちが大丈夫かという不安
原発を稼働した場合の生み出される使用済み燃料が増えること。
しかしただちに死に到る人はいないであろうと推測されるので
不意に停電が起きてしまうことで家庭用の呼吸器を使用されている方の命を脅かすくらいなら
稼働も止む得ないのかなと考えます。
これはまるでサンデルさんの正義の講義を彷彿させます。
人口呼吸器用の外部電源バッテリーが保険適用になったようなので
その不安が払拭されるといいのですが
誰かの死を意味するかもしれないのに
それでも尚自分に再稼働を反対する勇気があるかと自問しますね。
再稼働しない場合の停電が起こらない周到な準備を電力会社や政府に期待できないので。
誰かの命に関わる自体が生じるおそれがある時 意見をそのまま押し通してもいいのか考えます。
そしてきっと、生命だけではなく、誰かの機会を奪ってしまうかもしれない時
その方を犠牲にして 意見を押し通していいか考えます。