あなたが意見を変えるのはどのような時ですか?
そこで今回みなさんに聞いてみたいのは、「どのような時に、どのようなことをきっかけとして、自分の意見を変えますか?」ということです。原発問題や消費税問題など、具体的な議論について述べていただいても結構です。
ご意見お待ちしています。
私は自分の意見が「尊敬している人の意見」と違っていたら、私自身の意見を改めようとする、という場面があります。尊敬している人といってもその程度は様々ですし、どんなきっかけで尊敬するようになったかというのもまた様々だと思います。人により「師弟」のような関係になっていたりすれば、たとえどうあろうと師の指導に従うでしょう。また仕事などで尊敬する先輩、という場合もあるかもしれません。
私はそういったルールを定めている訳ではありませんが、どこか「この人に認められたい」といった様な思いが出てしまうことが、正直にあります。Twitterなどで密かに尊敬している方が発したことばを見つけた時、それが私自身の考えに反する場合があります。たいていは、思わぬタイミングで目にする為に瞬間的な反発心が出てしまいます。
そうした時、その相手を自分が尊敬しているとするならば、かなり高い確率で冷静さを取り戻し、再考する余地を与えてくれるように感じます。時により、日をかけて少しずつ自分の考えと行動を変化させていくこともあります。結果として、言ってる事、やってる事が反対になってしまったということも私にはたくさんあります。その期間を思い起こすと、苦しくもあり、情けなくもあり、ですが常に頭の中で対話が発生していました。
このように書くと主体性が無いというように言われるのかもしれません。先の師弟の例なんかは、ある種の「教祖的」従属で、自分を殺していると心配される恐れもあります。しかし、それでも自分の意見・行動を変えるのは他ならぬ自分自身以外にはないと私は思います。
ただ、やはり気をつけるべき部分はあるとも思います。ある人を気に入っているからといって、ある人の意見はすべて良しとしてしまう軽率さを持っているならば、それは反省すべきと考えます。それこそが妄信というものではないでしょうか。 (A)
そして逆に見れば(ここを主張したいのですが)、ある人の意見に対して猛烈な反発を抱いたとしても、ある人の意見や人格をすべて否定してしまうという軽率さを持っているならば、やはりこれも反省すべきだと思うのです。(B)
私の視野が狭いせいなのかもしれませんが、Twitter等の話題を見ていると「コイツはこんな主義を持っている!だからコイツは全然ダメだ!」といったような論調になってしまう人は多いのかなと考えてしまいます。A,Bどちらにせよ「人を断ずる」にはあまりにも気が早いとしか思えず、結局は自らを固くしてしまうことになるだろうと思うのです。なぜなら、そこには「疑う」事がないからです。
私は真に人の心(意見)を変えることは難事だと考えています。もし、威圧や数の暴力に頼って意見・行動を変えさせたとしてもそれはその人が「己心」から生み出した意見ではありません。そうした事を実現するには結局、誠実で地道な対話を積み重ねた結果、深い納得の上で行われる必要があると考えます。
前回のテーマにも通じるところだと思うのですが……
結局、集合知となり得る議論の前の段階に達していない状態が目立っているように思います。前回No.5"yamanorisu"さんが仰ったように「より良い方向性を導き出そうという気概が見られない」と感じる事があります。原発にしても、今回「がれき受け入れを拒否する為にトラックの下で抗議活動をした人々」の話にしても、(とかくTwitter上では)相手を”揶揄”する事に執心している姿を見かけるたび悲しくなります。
確かに多くの人が「それは愚かな行為だ」と判断する事であったとしても、私はただ”揶揄”するだけの精神では何も進まないと感じます。誠実ではないからです。相手の主義主張を1つ見る事で、相手の全てが「そう」だと思い込む自分を「疑う」ことをしなければ、その時点で既に「主義主張のアッチ側とコッチ側」に分かれて水と油の反発に終始する事を認めたも同然ではないかと思う訳です。
Twitterはその性質から「ウマイ事」を言ってそれに気付かせてやろうという意識が見えてくるように思います。(私自身もそういったクセがあります) その「ウマイ事」は、自分の主義主張が合理的だという自信があるからこそ「たとえ話によって、相手が自ら気付きを得るように」狙ったものだと思います。しかし、相反する相手にとってはまた別の主義主張こそが合理的だと自信を持っている訳ですから、その「ウマイ事」は単なる「愚かな発言」にしか見えなくなってしまうのだと思います。結局、お互いの”揶揄”に終始するのみという結果になってしまうように私には思えます。
前回の皆さんの書き込みから「ひとりひとりがもっと真剣な議論を」という課題が見えたように私は考えました。その後、私が考えたのは「では、その為にはどうしたらいいのか?」という事でした。言い方は悪いのですが、Twitter等の有効な集合知となりえるものの中で「井の中の蛙」にしかなっていない状態が目立つ(私も含めて)のだとすれば、ただひたすら待ち続けているだけでは何も変わりません。
今回の議題に関する話に戻りますが、私は人が真に心を変えるのは「真剣な対話」からだと考えています。つまり、尊敬できる相手だと思います。今、重要な議論がたくさん巻き起こっていますがそれらをネット上だけの「強がり」で終わらせるのではなく、勇気を出して身近な友人と真剣に語り合うところから地道に始めていけたら良いのではないかと思います。
とても遠回りな話だとは思いますが、一部強い影響力を持つ方を除き、多くは真面目な一般人です。もちろん私も単なる一般人です。「お前はそんな主義主張を持っていやがるのか」という態度で見下すのではなく、そうした場合には改めて敢えて自らの主義主張を「疑ってみる」ことも必要と考えます。また異なる主義主張の友人は、そういった機会を与えてくれる貴重な存在だと私は考えます。
ネット上のサービスがどんどん便利になり、つながりやすくなったとは言え私はそういった部分を軽視してはならないと感じます。そのような真剣な対話を繰り返した経験を積み重ねた人達が増えていくのならば、Twitterのような所の議論はより一層「先」へ進むものと思うのです。