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「正しい英語」あるいは「正しい日本語」はあると思いますか?

一時期、僕が書いている英語のブログに、オックスフォード大学にいる日本人の方が「茂木の英語はなってない」とすごく絡んできたことがありました。今ではもう仲良くなったんですけど、当時はすごく困りました。似たようなケースはツイッター上でもあります。

そういう方たちは大抵すごく知性派です。実際、語学力も高いのでしょう。だから文法的な傷があったりすると気になるのはわかります。ところがネイティブと話していて、「君の英語は間違っている」と言われることはほとんどありません。どうも「言葉を正しく使う」にこだわるのは日本人の特性のようにも思えます。

みなさんは、言葉を「正しく」使うということは、どのくらい大切なことだと考えますか。また、そもそも「正しい英語」あるいは「正しい日本語」というものがあると思いますか。

ご意見お聞かせください。

NO.6   yamanorisu 2012/06/10 16:04:26 合計 0pt.

言葉は生きていて、人とともに、常に変化しつづけている…というような内容のお話を聞いたことがあります。

もし、正しい日本語があって、それを常に守り続けていたとしたら、今の私たちの日本語は、今のようではなかっただろうと思います。
今の日本語は、柔軟に、ユーモアをもって、使われることで醸成されてきたものではないかと思います。

自分が表現したいことを、どうしたらうまく表現できるだろうか…と思うと、使う単語やアクセントやイントネーションなど、そのときの自分の感性にフィットするものを選んでいるように思います。
それが、日本語としてはおかしいかもしれなくても、そのときの自分にとってはそれがBESTな表現です。
それでは伝わらない、ということもあるかもしれませんが、「私」の表現したいことは、これなんだから。私は、それでいいと思っています。

もちろん伝わり合うことが必要な時もあります。
そのために、会話を続けることがあれば、言葉は、どんどん変わっていきます。
そんなときには、自分にとってさえ、これが決定版というものはなくなってしまいます。
先に書いたことと矛盾するように思われるかもしれませんが、コミュニケーションの道具として使う言葉には、絶対にこの言葉がいいというものはありません。

ことばの「正しさ」にこだわる人に多くの場合感じるのは、「自分の正しさ」を確信してそれを人にも認めさせたいという態度です。
自分と同じ考えで、同じ言葉を使っている人だけが、自分の理解者であり、それが多数派なのだと信じているような…。
そんな人たちは、言葉をつかってコミュニケションしているようでいて、自分を表現するための道具としてしか言葉を扱っていなくて、相手の言葉を受け止め理解しようとする気持ちを感じられません。

とても残念なことに、今一番それを感じるのは、娘の学校の先生たち(全員ではありませんが)です…。

少し話がずれてしまうかもしれませんが、子どもたちには、たくさんの日本語(言語)、たくさんの表現(古いものも、新しいものも。和も他も)に触れてほしいと思っています。その中から、自分の表現方法を見つけたり、自分以外の人はどんな感性をもっているか、どんなことを考えているかを知ってほしい。
それから、たくさんの人と出会うこと。身につけた言葉や表現、感性を、人とのコミュニケーションの中で確かめながら、自分らしさを磨いてほしいです。
「自分」を持ちながら、他の人を尊重し、社会の中で、上手に生きていける人に育ってほしい…と思います。