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再び原発について問いたい

今号の時評や7月1日の連続ツイートでも書いたように、今、大飯原発の前で、二つの文化が向き合っているのだと思います。文明を支えるシステムと、直観や感情などを伴った個人としての人間。おそらく、どちらだけでも人間は成り立ちません。この二つの文化は、どこかで出会わなければならない。

原発の問題は、相変わらず重苦しく、そう簡単にはすっきりした答えは出ません。ただ、私は、現在のやっかいな状況をもう少し引き受け続けたいと決断しました。この掲示板でも、あらためてみなさんからの意見を集めてみたいと思います。

再稼働が決まり、反対デモが起こる中、原発について私たちが考えるべきこと、すべきことは何だと思いますか? ご意見お聞かせください。

NO.6   ryosuke85 2012/07/06 13:32:38 合計 0pt.

正直な事を言うと、未だに分かりません。態度をはっきりとさせる事も出来ません。

放射性物質の恐怖感と言うのは確かに理解できますが、目に見えないものを怖がっている事がイマイチ皮膚感覚として理解できません。

では、当事者の立場に立ってみるように思考を働かせたとしても、絶対的な“差”は生じるわけで、本当にその立場に立たないとわからない。

けど、確かに、放射性物質に自身の体が蝕まれた、自宅の近くに暴走した原発があって帰れない、地震が頻繁に起こる事が予想されていながらも原発が経っている事の不安感…

それらを想像すると、僕なんかでもすごく嫌な気持ちになります。
自分が生まれてくる前に決まっていた事だとしたら、その土地にいる大人たちを恨んだかもしれません。
しかし、それを享受せざるを得なかった土地だから、というのも理解できるようになってきているのも事実。
僕のいる新潟には、柏崎刈羽原発があります。

僕の住んでいる街からは遠いのですが、その原発で生み出されているものが地元に還元されていない事を考えると、理不尽に感じる事もありますが、逆を言えば、そうまでしなければならないところまで追いつめられた土地だったとも言えるかもしれません。

原発の再稼働でかなりの揺らぎがあった訳ですが、再稼働をする事の明確な理由が示されずに、再稼働を決められるあたりに、僕を含めて皆さんもそうだと勝手に思っているのですが、議論が“勝手に”進んでいる事に怒りを覚えます。

自分の知らないところで、自分の顔も知らない人が、自分の体に“もしかしたら”影響が出てくるかもしれない事柄を決めている。
ここに大きな不快感を得ています。

そもそも再稼働に関しても、一度止めたにもかかわらず、再び動かす事を誰が了承したのでしょう。
また、再稼働させるうえでは、様々な生じ得るリスクを踏まえたうえで、それよりも再稼働させる事の方が優位だと感じたから再稼働させる事を決断したと思うのですが、その思考的なプロセスが、ちっとも垣間見えないので、ただただ、不満です。

ましてや、もし、これから原発を止めて、廃炉にしていくにしても、その技術を何十年とかけて継承発展していかなければならない事まで考える必要があると思うのです。
ただ止めたから、それでいいのかと言えばそうでもないですし、その中には燃料棒があるわけで、それを処理するにも相応の技術を常に考えていかなければならないわけです。

どちらにしても、僕の生きていなかったところで決まった事を、僕の生きている時代の中で解決しなければならない以上、既にあるものを無くすにも、継続していくにも投げ出すわけにはいかない、という事を認識する事は皆さんが認識されていると思うのですが、グレーゾーンで居られる強さを身につける為に、意見を強く持つことと、一つの意見に固執する事が違う事を考える必要があると思います。

まとまってませんが、よろしくお願いします。