再び原発について問いたい
原発の問題は、相変わらず重苦しく、そう簡単にはすっきりした答えは出ません。ただ、私は、現在のやっかいな状況をもう少し引き受け続けたいと決断しました。この掲示板でも、あらためてみなさんからの意見を集めてみたいと思います。
再稼働が決まり、反対デモが起こる中、原発について私たちが考えるべきこと、すべきことは何だと思いますか? ご意見お聞かせください。
私は、日本が脱原発の方へ向いてほしいと思っています。
前回書いたように、日本が地震の多い国、というのが理由の一つです。
放射能は、一度洩れたら、人間の力で回収することはできません。あとは半減期を待つだけです。その人体、環境への影響は、まだよくわかっていないと思います。
原発を推進することは、それでも必要だから、そのわからなさを受け入れましょう、ということだと思うのです。
私は、すべてのわからなさを拒絶するつもりはないけれど、原発のわからなさは、受け入れたくないと思います。
学生の頃、放射性物質を扱う実験をしました。被爆しないように細心の注意を払うことを求められました。だから、東海村JOC臨界事故の時、本当に驚きました。ウラン化合物溶液をバケツで入れていた???
なにかがおかしい、と。そこには、放射性物質を扱う時の二重の判断基準があるのでは?と思いました。学問として扱う時の基準と、商業ベースに載せる時の基準。
原子力発電に大学の実験のような細心さを求めることは不可能なのだと思います。
果たして、どちらの基準が妥当なのでしょうか?
明確な答えはあるのでしょうか?
放射性物質を扱う人間、関係する人間の価値を、どれだけのものに定めるかによって変わるのでしょうか?
また、今世界は、国境を越えて、ネットワークでつながれる時代になりました。このことで、国家という大きな枠組みの位置づけが、様々な別のグローバルな関係性のなかで変わっていくように感じます。人間が、その人間性のよい部分を引き出せる、あるいは損なわずにいられる、また、その組織に積極的に関われる、適切な大きさの基本的な単位があって、それは国よりも、もっと小さい単位であるように感じます。
世界が国境を越えてつながっていく一方で、その大きなつながりの中に埋没してしまわないように個々の人間をつなぐためには、国家より小さな単位が必要とされているように感じます。
あくまでも個人的な思いですが、これからは、大規模施設よりも、地域で使いこなせる小規模施設が充実し、地域で完結していく生活が基本になって、それぞれが、国という枠を超えてつながっていく時代になってほしいな、と思います。その方がより、人間の生きている実感や、幸せに近いような気がします。
原子力発電は、この流れから外れていると思います。
と、また夢のようなことを書いてしまってすみませんが、ひとつくらい、こんな意見があってもいいかな?と思い書いてみました。
脱原発に向かうかどうかはっきりするのは、原子力発電所を新設するかどうかを選択するときに表れると思っています。
そこで、大きな決断がなされることを、意識していたいと思います。
そして、そのためには、再稼働反対の運動が、国民的規模で盛り上がるのも大事だと思います。私も何らかの形で参加していこうと思います。
最近「政府が信頼できない」という言葉をよく聞くので、考え込んでしまいました。信頼できる政府を作るのは、私たち国民じゃないかな?と反省をこめて思いました。
選挙で真剣に考えて投票することだけでなく、自分たちの意志をデモ行進という形で表現するのも、信頼する政府を作り上げていく一つの方法だと思います。