いじめについて
適塾では、同じ塾で学ぶ塾生たちから高評価を得ようとみんな必死になって勉強しました。このメルマガ私塾でも、より一層の切磋琢磨をしていただけると嬉しく思います。
さて、今回のテーマは、「いじめ」についてです。個人の問題と社会の問題を同時に考えなくてはならない、とても難しいテーマだと思います。はたして、「いじめ」を根絶することはできるのか。根絶することなどできないとしたら、どのような工夫をすることでいじめられてしまった方のダメージを減らすことができるのか。みなさんのお考えをお聞かせください。
以前、自分のブログに「いじめ」について考えたことがあります。それをそのままここに転写したいと思います。
URL:http://blog.livedoor.jp/thnkks0304/archives/51671244.html
『「いじめ」を「いじる」から考える。』
いじめは様々な環境でみられる悪質な行為であり、社会問題の一つとして取り上げられることが多い。特に、青年期のいじめは教育や成長に対して悪い影響を与えるものであり、いじめを受ける当事者は想像し難い精神的苦痛を受ける。平成20年度の文部科学省の調査では、小・中・高・特別支援学校における、いじめの認知件数は約8万5千件であると言われている。認知されているいじめは氷山の一角と考えることができるため、認知されていないいじめを含めると、多くの教育現場ではいじめが発生していると考えることができる。
私は、いじめは世の中から決して撲滅できないものであると考える。なぜならば、いじめている人間や集団はいじめの行為が楽しく、集団としての結束力が高まるからである。いじめは小さな出来事から発展することが多いが、集団で1人の生徒に対して小さな行為(軽い暴力や暴言、無視など)を行い、精神的苦痛を与え、その反応を見ることは、自分がその生徒よりも優位な立場になった感じ、優越感や快楽を得ることができる。そしてより大きな快感を得られるように与える行為はエスカレートし、それに伴っていじめを与えている集団はますます仲間意識と権威が高まってくるのである。
それでは、どのようにすればいじめは減ってくるのであろうか。ここで「いじめ」ではなく「いじる」を考えることで、「いじめ」の解決の糸口になると考える。「いじる」は日本の関西圏で通じる表現である。「いじる」は「いじめ」と同様に、ある集団が1人の人間に対して叩いたり暴言を浴びせたり、非日常の行為をすることで相手の反応をみて、集団として快感を得るものである。しかし「いじめ」と違って、いじられている方の人間にとっては精神的•心理的苦痛を感じていない。
「いじる」を思い浮かべる上で、参考になるのはお笑い芸人のダチョウ倶楽部の上島竜兵や出川哲朗であろう。叩く、蹴る、熱湯や海やワニの入った川などに突き落とす、集団で叩いたあとに気がつくと服が脱がされており裸になっているなど、一見すると「いじめ」に見える光景(外国人が初めて見たら誰もが「いじめ」と思うだろう)であるが、いじられている本人にとってはこれが「おいしい(私が思うに「おいしい」とは周囲の人間を楽しませたという自負)」のである。なぜならば、「笑い」が起こるからである。
「いじめ」と「いじる」は一見すると同じような光景にみえるが、両者を分ける境界線は「笑い」である。集団の中に「笑い」が生じていなければ、それは「いじめ」と受け取られる。「いじめ」にも笑いが起きることがあるが、「いじる」ときに生じる「笑い」とは質が違うものである。人を「いじる」ときに生じる「笑い」には「哀しさ」と「愛おしさ」が存在する。いじられた方も、その良質な「笑い」を起こしたといった主体性や自負を感じ、「おいしい」という満足感が生じる。
したがって、「いじめ」を減らすためには、組織の中に「笑い」というものが常日頃から起こっている状況をつくることが一番の方法であると考える。「いじめ」が頻繁に起こっている組織や集団では上記で述べたような良質な「笑い」が起こらないために、ある行為が「いじめ」と思わせるような陰湿なものと捉えられ、その雰囲気が周囲に波及し、周りの集団にもネガティブな印象を与えてしまう。組織や集団のなかに良質な「笑い」があれば、一見するといじめと思わせる行為でも「いじる」と周囲の人々は受け取ることができるし、行為が悪質化しないのではないだろうか。いじめが発展してしまう原因の一つとして、周りの人々が無関心な白い目でみてしまうことである。周囲の受け方で、ある集団が1人の人間に与える行為が陰湿なものとして受け取られないし、悪質化もしないのではないか。このように組織の中に、良質な「笑い」が起きている現場を創ることで「いじめ」は減ってくると考える。
竹内健太
twitter:@kentatakeuchi(T☆K)