いじめについて
適塾では、同じ塾で学ぶ塾生たちから高評価を得ようとみんな必死になって勉強しました。このメルマガ私塾でも、より一層の切磋琢磨をしていただけると嬉しく思います。
さて、今回のテーマは、「いじめ」についてです。個人の問題と社会の問題を同時に考えなくてはならない、とても難しいテーマだと思います。はたして、「いじめ」を根絶することはできるのか。根絶することなどできないとしたら、どのような工夫をすることでいじめられてしまった方のダメージを減らすことができるのか。みなさんのお考えをお聞かせください。
昨年度、娘(当時小学校3年生)のクラスが、いわゆる「学級崩壊」状態となりました。
授業中、席を立って外で、廊下で好きなように遊んでいる子。(一人や二人ではない)
授業に集中せず、おしゃべりをしている子、意味不明の声を発し続ける子。(病気や障がいではない)
学習を取りこぼしている子。(得意不得意で、どの授業にも発生)
友達の間違いを指摘する子、それを笑う(嘲笑する)子。(ほとんどの子がそう)
わからない、できない、ことに耐えられず、イライラする子。
意見を求められても黙っていて何も答えない子。(わかっているのに答えないように見える)
「死ね」「うざい」「うっせんだよ」「そんなこともわからないのかよ」「ばかじゃないの」・・・びっくりするような人を傷つける言葉が飛び交う。
あちこちでトラブルが起き、そのストレスやイライラを引きずる子が、教室の空気をさらにぴりぴりさせる。
11月の授業参観の後、先生が「様子を見に来てほしい」と言ったのだったか、「様子を見にきてもいい」と言ったのだったか、よく覚えていないけれど、翌日朝から下校まで一日学校へ行きました。
想像以上にガタガタに崩れた状態。その中から聞こえてきたのは、子どもたちの「SOS!」「助けて!」でした。胸が締め付けられそうなくらい切ない必死の叫び。
その日から、3年生の修了まで、毎日時間の都合のつく親がクラスのサポートに入りました。
教頭先生や、他のクラスの先生方も、空き時間にはサポートに入ってくださって、なんとか無事に、3年生を乗り切り…、今4年生。
町に6つあった小学校がひとつに統合されたので、クラス替えもあり、1クラスの人数も少なくなり、先生もかわって…あの姿が嘘のように、どの子もとても穏やかな顔になり、落ち着いて、楽しそうに過ごしています。
今になって思うと、あのとき先生が、親が授業参観以外にいつでも見にきていいと言った真意は、『「自分の子どもがどんなことになっているか見にきて、なんとかしてほしい」=家庭に、親に、問題があるんじゃないですか?!』だったように思います。
子どもに問題が起きると、親、家庭のせい。という考え方は、学校の先生たちの中にある根強い意識のように思います。
親、家庭に、全く問題、要因がない。とは思いません。
むしろ、子どもがどう育っていくか…子どもをどう育てたいか…は、それぞれの家庭の考え方、価値観、文化によると思います。
いろいろな親がいて、いろいろな家庭があって、その中でいろいろな子どもが育つ。
その当たり前が、「学校」の常識の前では、見えなくなっているように感じました。
子どもたちは「学校」の「先生」の価値観に従って育たなければならない…。
少なくとも、昨年度に関していて言えば、子どもたちは担任の先生の価値観に縛られ、「みんなちがって みんないい」と言われながら、「みんな同じでなければいけない」というバインドがかかっていたように思います。
友達関係も、勉強も、国語の答えでさえ「こうあるべき」があり、そこへ誘導される。そんな中で、人と違うことはいけないことという価値観ができあがっていましたし、先生の答えが正しいので、自分の言葉で考えることをいやがるようになりました。また、勝手に何かをすると怒られるので、指示されるまで待っている、言われなければできない、という状態にも陥りました。
一方で親たちは、「先生の指導力の問題。いい先生ばかりじゃない。」「担任の当たり外れは仕方が無い。」
そんな諦め…冷めた割り切り…をもって、学校を外から眺めています。
実際、他の学年の親からは、「来年先生がかわれば落ち着くよ」(今年度はハズレだったね)。と言われました。
クラス全員の親が集まって、話し合ったこともあります。
いろいろ不満や意見はでるけれど、じゃあどうするか?となると、担任がかえられるわけじゃないし…。子どもを学校へ行かせないって訳にはいかないし…。家では何とかするけど、学校で起きていることは学校で何とかしてくれないとね……。
確かにそうです。
担任は選べない。
子どもが家にいたら、勉強にならないし、親も仕事があるし…。
3年生の子どもたちが起こすトラブルは、まだ幼く、自分中心の理論で起きますし、時間がたてば、そんなことを忘れてまた仲良く遊んでいたりするから、そのときその場で対処しておかなければ、身につきません。
親が順番で学校に行っていたとき、「親は学校になじまない」と言われました。
確かに、親から離れ自立した生き方を身につけるためには、親がいてはダメだと思います。
でも、これを逆手にとって、学校(クラス)の運営に口を出させない。となっていないだろうか?とも感じました。
数ヶ月間学校に行ってみて、学校の、そして、クラスの閉鎖性にびっくりしました。
外からの人が来るとしても「お客様」でしかありません。親も授業参観という準備された時間に参観にいくだけです。
お客様がいるときは、体裁を繕うのがあたりまえ。朝から一日いることで、見えてきた実態がたくさんありました。
PTAも、行事実行委員会のようになってきています。
自分の、地域の子どもたちの学校教育に、先生以外の大人が主体的に関わるチャンスは、とても少ないのだと感じました。
クラスに関しても、そうです。
「なぜこんな状態になるまで、子どもたちのSOSを放っておいたのか?!」と感じましたが、学校の体制の中では、他のクラス担任はもちろん、教頭先生も、校長先生も、クラス運営や、担任の先生のやり方を見ることも、意見交換することも、批評しあうこともないようです。
先生方は、私たちには「自分だったらこうする」と言いますが、担任の先生に対しては言いません。
昨年度、親がクラスにサポートに入り、親も実態を知るという事態になって始めて、管理職から担任の先生への指導が始まりました。
もっと早く気づいて対処してくれていたら…と思う反面、あのとき、親が入らなければ、何も起こらないままだったのだと思うと、「もっと早く…」は贅沢な望みだったのかもしれないとも思います。
昨年度の娘のクラスでは、明らかにイジメが起きていました。
あの状況では、子どもたちはストレスをどこかにぶつけずにはいられなかったでしょう。
少なくとも、昨年度の娘のクラスでは、イジメていた子どもたちは、先生からイジメを受けていたのです。
先生の理想の生徒像になれないために…。
先生は、イジメているとは全く思っていなかったと思います。悪意はない。
でも、悪意がないのだから…で許されていいものではないと思うから、何度も話し合いを持ってもらいました。
自分を変えようと努力をしてくれたと思いますが、すでに、先生もクラスの子どもたちのことをかわいいと思えなくなっていたようですし、子どもたちも、先生の態度の変化に戸惑うだけで、時間が過ぎていきました。
子どもたちのイジメは、明らかに目に見えるものだけでなく、大人の目の届かないどこかで起きているものもありました。
休み時間、登下校時間、下校後や休日…。
大人の目があっても、なかなか気づけないような日常的なイジメもありました。
子どもたちは、先生に言っても解決しない、みんながやっていることだし…という気持ちになっていて、いけないこと、悲しいこと、という感覚が麻痺していたように思います。
恥ずかしいことに、親(たち)は、子どもたちの学校でのストレスに、早い段階で気づくことはできませんでした。
子どもたちが切羽詰まって、どうにもならなくなって始めて、「どうしたのかな?」「ちょっとへんだぞ」と感じ始めました。
嬉しかったのは、気づき始めて、事態を知ってから、どの家庭でも、それぞれに子どもたちへのアプローチを始めたことです。そして、親同士情報交換も始めました。
難しかったのは、やはり、被害者であると見える子どもさんの親と、加害者であるように見える子どもさんの親との間の確執でした。
第三者の立場でみると、子どもたちはみんなそれぞれにいい子でしたし、どの子もみんなストレスを感じ、どちらも、加害者となり、被害者となっていたと思いましたが…。
多様性を認める。みんなちがって みんないい。
この価値観が建前になり、単に「物理的に違う」数十人が集まる集団として扱われ始めたとき、子どもたちはSOSを発したのだと思います。
ひとりひとりの個性は小さく押し込まれ誰の目にもとまらなくなるか、集団の形を乱す悪いものとして扱われる。
右にならって、右に同じにしていれば、事なきを得るけれど…。
子どもたちは、それではいやだ!と主張したのでしょう。
私たち大人は、多様なことで活性化する社会をつくることで、子どもたちの主張に応えていかなければいけないと思います。
多様な環境では、どの子もできることや得意なこことがあることと、ども子もできないこと苦手なことがある、という当たり前のことに気づけるはずです。そして、それでいいんだよと言ってもらえるはずです。
学校は、子どもたちを「過保護」し、「過干渉」で個性を削る場であってはいけないと思います。みんながいろいろな形をしていて、みんながそれぞれの力を発揮して、力を合わせて生きていく社会を目指してほしい。
そのために学校は、外からの風を入れる努力、外に出て行く努力をしていく必要があると思います。内にこもっていれば面倒なことはないけれど、あえて面倒を受け入れる努力を。
今の学校にとっては、都合の悪いこともあるかもしれません。もうこれ以上仕事を増やしてほしくないと、先生たちは言うかもしれません。でも、外に目を向け、たくさんの出会いをつくれたら、いろいろな人たちが、先生や子どもたちをサポートしれくれると思います。
子どもたちを教育し、育てていくのは、学校(の先生)だけではない。
そして、親だけでもないのです。
学校が、子どもたちが、たくさんの刺激を受けて、頭をフル回転させて、体を使って、学ぶ場になるように。
大人たちがみんなで、子どもたちを愛していると、伝えることのできる場になるように。
まずは、大人たちが意識して、face to face で話し合う努力を重ねていきたいと思います。