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いじめについて

6月18日配信のメルマガで宣言した通り、今号からこの掲示板に「適塾システム」を採用したいと思います。システムは簡単です。これまでと同じように、僕からテーマを出しますので、みなさん活発に議論をしてください。ただし、今回からはメルマガ読者がみなさんのコメントについて、1~5の「評価」を付けることができるようになりました(5の方が高評価と捉えてください)。各テーマごとにもっとも評価の高かったコメントについては、僕がメルマガやツイッターで紹介します。また、年間の累計評価ポイントが多かった人には、何らかの表彰をすることを考えています。

適塾では、同じ塾で学ぶ塾生たちから高評価を得ようとみんな必死になって勉強しました。このメルマガ私塾でも、より一層の切磋琢磨をしていただけると嬉しく思います。

さて、今回のテーマは、「いじめ」についてです。個人の問題と社会の問題を同時に考えなくてはならない、とても難しいテーマだと思います。はたして、「いじめ」を根絶することはできるのか。根絶することなどできないとしたら、どのような工夫をすることでいじめられてしまった方のダメージを減らすことができるのか。みなさんのお考えをお聞かせください。

NO.15   kimuken0826 2012/07/23 15:19:25 合計 10pt.

なぜいじめが起きるか?そこにはある種の「見下し」があると考える。今回問題となっている中学生、思春期においてはコミュニケーション能力に大きく差がでてくる時期。学校内においてはコミュニケーションの高い「活発」とされる少年が、コミュニケーション能力の低い「おとなしい」とされる少年をいじめるケースが多いのではないか。しかし、当然ながらコミュニケーション能力が高い子供が、コミュニケーション能力の低い少年よりも必ずしも人間として優れているわけではない。コミュニケーション能力が低かったとしても、論理的思考能力では優れているかもしれない、芸術的感性では優れているかもしれない。

人間の能力なんてものは、ある特定の側面から測れるものではない。だが、いじめが起きる場面においてはそのような思考は停止される。「こいつは自分よりもコミュニケーション能力が低い。だからいじめてもいい。」そんなモノカルチャー的思考から、いじめは起こる。「こいつは自分よりもコミュニケーション能力が低い。だけど、論理的思考においては自分よりも優れているかもしれない。芸術的感性では自分よりも優れているかもしれない。」そんな多面的側面から人間を判断する思考は停止される。

そもそも、ある特定の価値観だけで人を見下すというのは、思春期における子供たちだけでなく、今の日本全体を覆っている空気ではないか。一流とされる大学に行き大企業に勤める「エリート」が勝ち組で、それ以外は負け組として見下す。しかし、現実はそんなものではない。

ドストエフスキーは「罪と罰」の中で、凡人を「現在の支配者」非凡人を「未来の支配者」と表現した。凡人は既存の秩序の中で地位を築きそれを必死に守るが、非凡人は既存の秩序自体を破壊して、新たな支配者となる。現在世界を席巻しているApple、Google、Facebook。創業したのは日本の定義するエリートからは外れた、大学中退者。新しい波を巻き起こすのは、既存のプロセスから外れた非凡人である。
 
子供は社会の空気を敏感に察知する。今日本を覆っているモノカルチャー的思考は、「こいつは俺よりもコミュニケーション能力が低い。だからいじめてもいい。」という子供の単一的な思考を助長していないか。まずは社会が人間の多様な在り方を認め、さまざまな価値観の在り方を肯定し、多様性を認める。そうすることで、子供にも多様な観点から人間を判断する力が養われ、いじめの減少に繋がるのではないか。