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いじめについて

6月18日配信のメルマガで宣言した通り、今号からこの掲示板に「適塾システム」を採用したいと思います。システムは簡単です。これまでと同じように、僕からテーマを出しますので、みなさん活発に議論をしてください。ただし、今回からはメルマガ読者がみなさんのコメントについて、1~5の「評価」を付けることができるようになりました(5の方が高評価と捉えてください)。各テーマごとにもっとも評価の高かったコメントについては、僕がメルマガやツイッターで紹介します。また、年間の累計評価ポイントが多かった人には、何らかの表彰をすることを考えています。

適塾では、同じ塾で学ぶ塾生たちから高評価を得ようとみんな必死になって勉強しました。このメルマガ私塾でも、より一層の切磋琢磨をしていただけると嬉しく思います。

さて、今回のテーマは、「いじめ」についてです。個人の問題と社会の問題を同時に考えなくてはならない、とても難しいテーマだと思います。はたして、「いじめ」を根絶することはできるのか。根絶することなどできないとしたら、どのような工夫をすることでいじめられてしまった方のダメージを減らすことができるのか。みなさんのお考えをお聞かせください。

NO.16   Tomoikukai 2012/07/23 16:51:02 合計 12pt.

昨日、NHKの番組で、平野文科相は大津市の中2自殺を受けて、省内にいじめに取り組む新組織を設置するという意向を話されていた。私は、これを聞いて、今更ながら、学校教育に対する国の管理統制意識のすごさを感じてしまった。いじめの問題に対して、国の権威でいじめの問題に対処すれば、当然、数値的に成果が求められることになり、厳罰化や裏に潜る潜在化がおこってくることになるのでしょう。ここでの問題は、文科省始め、教育に携わる人々、子供たちの親たちのほとんどが、いじめや、学級崩壊、ゆとり教育の失敗、英語教育の無策等々、ほとんどすべての教育問題の根本原因が、この明治維新以来続く国の管理統制体制にあるということに気づいていないか、気づいたとしても、それを改革改善する手段を持たないということだと思う。今、主たる、国が考えている教育に対する管理統制の焦点は、全国津々浦々の子供達の能力を同じ条件で競わせ、点数化し、その点数を伸ばすことが教育の目的であり、その結果得られた成績の偏差値に応じた教育を高等教育で施すということに向いていると思う。故に、いじめ問題で、勉学に支障を来すのは大問題であり、点数ののびないゆとり教育は廃止され、小学校の英語教育は中学校の点数主義を邪魔しないように、やってもやらなくっても子供たちに差が出ないように巧妙な心配りがなされている。結果、今の小学校の英語教育は以前のゆとり教育以上に無駄である。もとい、ほとんどの日本の英語教育は、もとい、日本のほとんどの学校教育は無駄である。このことは、少々過激な意見に見えると思うが、今日の、グローバルな視点で日本の教育界を見渡すと、あながち極端な意見であるとは思えない。
日本は、明治以来、この、国による、管理統制教育により、はじめは軍国主義として、戦後は経済至上主義として世界にまれな国力を短期間で獲得した。そして、一部を除いて、国民のほとんどが、これを成功体験として共有したようだ。この成功体験こそが、周りの環境が大きく変わり、今の教育が無駄に終わっていると感じても、国家による管理統制モデルを捨去ることができない大きな理由だと思う。そして、いつの頃からか、このモデルが子供達の知的、或は人間としての能力を伸ばすことができなくなってしまったとき、逆に、この体制こそが、子供達の伸びるべき能力を押しつぶす役割を果すようになっていったのだと思う。今、学校で受ける教育のほとんどは自分たちの将来に何の役割も果たさないことは、子供達は敏感に感じとっているようだ。何のために勉強するのか?こんな、素直な最も切実な疑問を持ったものたちが、次々と学校から脱落している。先生も、親達も唯々、いい学校へ入る為だという以上のことはいえない状況なのでしょう。この状況は、子供達にとっては、なんとか地獄というのがありそうな、地獄の状況でしょう。
いじめや学級崩壊は、この地獄からの阿鼻叫喚と捉えるのが素直なものの見方だと思えるのだが、ここに国が乗り出すということは、その子供達をたたき潰しに閻魔大王様がやってくるようなものである。こんなことで状況がよくなると思うのは、ほとんど気が狂っているとしか思えない。こんなことを発想する政治家や、官僚の皆さん達は多分、他人の視点から物事を発想する能力が欠けた人達で、戦後偏差値依存教育が進む中で育ち、それに勝ち抜いて成功を勝ち取った人達なのでしょうか?

それでは、どうしたら、子供達が生き生きと学び成長する教育環境が実現できるかということに移りたいと思いますが。多分これがこのフォーラムの最も議論しなくてはならない点だと思います。
私は先にいじめやその他の教育問題は国家の管理統制意識(頼み)がその根本原因であろうと述べましたが、ひとり教育問題に限らず、日本における、社会問題のほとんどは、国家の管理統制や、社会通念、世間の常識といったものが、個人の自由意志を封殺しているところからきているように思えるのです。
具体的には、親は子を思い、子は親孝行するのは当然、目上やお年寄りは敬い、先生や上司には逆らわない。つまり、日本人が培ってきた儒教の教えによる美しい日本人のあるべき姿が価値観として、絶対化し、疑問を差し挟むことを許さない文化が、グローバル化した対等文化とでも呼べるこれから目指すべき価値観との間で大きな軋轢を生んでいるのではないかと思うのです。

では、目指すべき対等な人間関係とはいったいどういうものでしょうか?
それは、年齢、性別、人種、国籍、職業、学歴、病気、障害、その他家柄、生い立ち等、いっさいの偏見を差し挟まずに相手を評価する関係とはいえないでしょうか? 勿論、完全にこんな関係を実現しようと思ってもなかなかできるものではないですが、日本では、長らく儒教文化を続けてきたせいで、また、先に述べたような成功体験で、ここのところを深く考えたことがなく、偏見との戦いが最も遅れてしまった国となっているようです。
それでは、偏見フリーな教育とは一体どういうものかといえば、たとえば、米メリーランド州のジャック・アンドラカ君は15才で膵臓がんを90%の確率で検出できる方法を開発したということであるが、この発明はノーベル賞に匹敵するそうである。また、シカゴ大学大学医学大学院でMDを取得した、日系アメリカ人の矢野祥君は分子遺伝学と細胞学の博士学位を18才10ヶ月で受けている。しかし、もしこの子達が日本の価値観の中で教育を受けていたら、完全にドロップアウトか、引きこもりの生活に追いやられていたかもしれない。もしかしたら、いじめっ子かいじめられっこになっていた可能性だってある。アメリカにはほかに、中学生が、フェイスブックの子供版を作ったという例も報告されているし、まだまだニュースではフォローしきれない、若き天才達が数多く活躍しているだろうと思われるのが今日のアメリカである。中国からも英才教育のニュースは以前からあったと思うが、今後どんどん、世界に通じる若き天才達が出現してくることだろう。

ここで、私がいいたいのは、今の日本の教育体制では、社会のバックアップも含めて、若き天才達(私は、ほとんどすべての子供達が、環境と場所を得ればそうなると思うが)が潰され、疎外されて社会のお荷物とまで見なされるようになるということである。今の教育体制は社会、教師、生徒達のそれも個々人の不信感で成り立っているように見受けられる。今回の国の介入も、教育委員会や、先生、親達に対するマスコミに主導された世論の不信感によってやらざるを得ない状況が作られてしまっていると思う。そして、不信感によってのみ運営される組織は当然無い方がましであり、学校が今のような状態で運営され続けるのであれば、生徒や親は、登校を拒否する権利が当然にあるのである。が、ここでまたそれを阻むのは、社会通念というか、日本の世の中は、ホームスクーリングの子供達を受け入れる寛容性がとても少ないのも事実である。

私としては、名もない一市民ではあるが、今一度、すべての学校を大学に至るまで、完全に解体し、学制も根本から見直し、未来の子供達のために、生き生きとした天才達を生み出す為に、そして又、世界における新しい日本を実現する為にも、教育を一から見直すことを提言したいと思う。アイデアは、各方面の人々が、いろんな立場で出し合うことができるし、ツイッターその他で政策をまとめあげる方法も少しずつ整いつつあると思えるのと、他のSNSにもかなり期待してもよいように思う。そして、これが国政の段階で実現できなければ、日本の将来はあきらめなければいけないというところまできているというのが私の実感である。