お金について考える
別の角度から言うと、お金というのは国家と結びついています。お金の通用力というのは、国家が担保しているわけですから。ドルは、アメリカの軍事力と経済力を背景にあれだけ大量に刷ることができているのです。だから、お金について考えることは、国について考えることになる。「お金なんていらない」という議論は、「国家なんていらない」ということにつながっていく。それはもちろん考えるに値する議論なわけですが、はたして現実に持続可能なのでしょうか。あるいは本当に日本人全体の意思を反映しているのかどうか。ぜひ皆さんの経験も踏まえて、議論しましょう。
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お金について
竹中平蔵さんの言葉を拝借して…
お金というのは「国の信頼度」であり、経済学は英語で「Economics(エコノミクス)」だが、その源流はギリシャ語の「Oikonomikos(オイコノミクス)」であり、この意味は共同体の在り方、というものです。
この言葉に頭をガツンと打たれたのですが、経済学というのは、日本の中で、引いて言えば世界の中でどういう風なあり方をしていけばいいのかを考える学問であるという事です。
また、「円」の価値は、=日本の世界的な価値を示しているのはいうまでも無いのですが、これは日本の中でも当然あるわけで、僕たち日本人が1万円を非常に高価な紙幣だと思っているというのは、日本という国を信頼し、信用しているからであり、この信頼がなければ日本という国は動いていないのと同じことになります。
また、他の国に行って、他国の紙幣を手にした瞬間に感じる“陳腐”な感覚を、同じく竹中さんは「信頼感が無いから」と説明します。つまり、われわれ日本人は日本の円という紙幣の価値については、長年使ってきたことから信頼していますが、他の国の紙幣に関しては使い慣れてない僕みたいな人間は、それを信用できていないので、おもちゃのお金のように感じてしまいます。
それを踏まえた上でお金が必要なのか、必要でないのか、という点に触れると、僕は必要なものだと思っています。代替物が無いのであれば。
例えば、円では無く、織物が日本の貨幣だと決まってしまって、それが流通しうるのであれば、それでいいと思います。
ユーロは欧州圏の統一貨幣ですが、これによって起こっている事は、ユーロ圏の中で過疎化が起こっています。ドイツとギリシャは同じユーロ圏に属しているにも拘らず、大きな差が生じています。これは何も世界の話では無く、日本の中でも散々言われている都市部と地方都市の格差というのは、同じ“日本円”という土俵の上でも起こっている事で、貨幣を揃えた所で経済的な問題を帳消しにできるかと言えば、そうではない事が分かります。
同じ土俵に上がる事で全体の底上げは可能ですが、全体が裕福で幸福度が増えるかと言えば、それは全くの別問題だという訳です。
「お金なんていらない」という議論が出てきているという事は、日本人がある程度日本という国に満足しているからなのかもしれません。
それはもしからしたら、投げだしているのかもしれませんが…
あとは、お金の「使い方」について考える機会が小学生のころに多くあり、それを検証してくれる場があればいいのかなぁと勝手に思っています。
というのも、稼ぐよりも使い方の方が難しいと思うんですね。
その理由は、例えば、時給1000円で働いて、それを即金でもらい、それをどのように使うのか、という点においては個人戦略が必要です。
稼ぐというのは、ある程度ならば誰にでもチャンスがあるわけで、そこからどう使うのか、という点で色々な人の中で差があるように思います。
もちろん、その差が生じるのは当然なのですが、ある程度、うまく使う事が出来るようになれば、貨幣価値が上がるように思います。
そんなところから、僕の個人的な意見を言えば、お金は必要であり、円には価値が高まってもらいたい。
それは別に何の理由もありません。ただの愛国心からです。
そして、円の価値が高まるという事は、日本の価値が世界の中で高まっているという事ですから、日本という国を好きである以上は、日本の価値を、もちろん、貨幣的なもの以外でも高めていきたいというのが僕の意見です。
Twitter:ryosuke_endo
遠藤涼介