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お金について考える

最近はよく「お金なんていらない」といったことが言われています。お金よりも大事なのは、人とのつながりであるという議論をよく見聞きします。確かにインターネットの普及によって、人と人の「つながり」そのものがセーフティネットになる可能性は出てきています。しかし、ご本人から聞きましたが、湯浅誠さんが立ち上げた「パーソナル・サポートサービス」(※)も、内閣府の予算がついているからこそ、実現した制度だそうです。「新しい公共」を作り、運営していくにも、やはりお金が無ければ難しいというのも、一面の真実だと思います。

別の角度から言うと、お金というのは国家と結びついています。お金の通用力というのは、国家が担保しているわけですから。ドルは、アメリカの軍事力と経済力を背景にあれだけ大量に刷ることができているのです。だから、お金について考えることは、国について考えることになる。「お金なんていらない」という議論は、「国家なんていらない」ということにつながっていく。それはもちろん考えるに値する議論なわけですが、はたして現実に持続可能なのでしょうか。あるいは本当に日本人全体の意思を反映しているのかどうか。ぜひ皆さんの経験も踏まえて、議論しましょう。

※「パーソナル・サポーター」が、生活保護や障害福祉、医療保険、介護保険、雇用保険などの専門知識を生かし、利用者にマン・ツー・マンで寄り添いながら、継続的に相談に乗る制度

NO.5   Tomoikukai 2012/08/11 16:20:27 合計 5pt.

「働かざるもの食うべからず」とは、聖書に出てくる言葉だそうですが、共産主義革命では、プロレタリアートがブルジョワジーを一掃するための明快な思想のバックボーンになったように思われます。しかし、共産化が進むにつれて、労働者のサボタージュがおこり、地位、立場の既得権化(利己主義化)が進んだ結果、働かないものほど得をするという社会になっていきました。欲望をモチベーションにしたとはいえ、働くことによって際限なくお金を稼ぐ自由主義に経済力ではとてもかなわなくなって、旧ソビエト連邦は崩壊していきました。

方や、日本でも、「働かざるもの食うべからず」は、儒教的道徳観念として、他の国以上に定着した考え方です。しかし、この考え方は、先の、ソ連邦に見らるように、今では必ずしも国家の繁栄をもたらす原動力になるとはいえないような気がします。というのは、日本のように工業化された国では、機械化やコンピュータ化が進み、個人の労働が、供給される生産材の量や質とはあまり関係なくなってきたからです。こういう状況では、政治がよほどしっかりしていないと、富の配分は、既得権化(利己主義化)していかざるを得ないと思います。

今、富の配分においても、ほとんどの人が賛成しそうな考え方は、「働かざるもの食うべからず」です。そして、この考えにたてば、一生懸命働いてきた人の年金を減らして、ろくに働きもしないで遊んでばかりいる若い人達にその一部を回すなんていうことはとんでもないということになるのでしょう。

確かに「働かざるもの食うべからず」あるいは「労働の美徳」をいうことは、昔は特に意味があったし、いまでも、働かないでぐうたらしているのを認めるのはなかなか楽ではありません。しかし、これらの価値観が本当に意味を持つのは、昔も今も、自分自身に問いかける時です。もともと、「働かざるもの食うべからず」はキリスト教の概念です。それは、神と私の一対一の契約である以上、自分自身の問題と捉えることであって、他人に対して、批判的にいうものではありません。かたや、儒教的価値観にしても、私自身が利他的考え方をすることが前提となっていますから、「働かない私が、皆さんの分の食べ物を食べてしまうのは誠に申し訳がない」という具合に捉えるべきで、「働かないお前に食べる資格はない」というような捉え方は、鬼か蛇のような考え方だということになるでしょう。

私は先の投稿(No.2)で、日本人は、戦後教育と繁栄した資本主義経済の中で儒教という利他の皮をかぶりながら、利己主義者になってしまったと書きましたが、利己主義の目で、儒教の価値観に触れると、いつもその枠から外れる他人を批判します。たとえば、明るい挨拶運動があるとします。運動だから、個人の自由に任せればいいと思うのですが、日本では、ほとんど強制です。つまり、挨拶しない子は、悪い子であり、矯正の対象となってしまいます。挨拶そのものは利他の行動であるはずなのに、強制されることによって、心の中はますます利己的になってしまう(とりあえず挨拶しとけば文句ないだろう)ということです。

自利利他円満という言葉があります。人の為に尽し、他人の幸福を心から願うことこそが自分自身の内面を磨いていくということでしょうか。
それに対して、自損損他ということは、他人を貶め、不幸に追いやることは、結局自分を傷つけ自分自身を貶めてしまうということでしょうか。

今の日本を見ていると、自損損他の意見や行動が巷にあふれています。それが儒教の皮をかぶっているので、お互いに自分の正当性を主張して譲らないという具合になっているようです。

人間の世の中で、理想とされるのは、文句なく自利々他円満の世界でしょう。これを実現する為には、まず、一人一人が利己主義者に陥ってしまったことを自覚しなければ始まりません。どうにかして、それができれば、後は簡単で、自分の損得からはなれた視点に立って、政治や世の中を眺められるようになると思います。本当の民主主義というものは結局利他と利他(演技じゃなく)の関係でしか成立しないもののようです。

「歎異抄」という本の中に「悪人正機」の章があります。この中で、悪人とは、自分自身の中にどうしようもない煩悩を見いだし、慚愧する人であり、善人とは、自分は立派な生き方をしてきたが故に、そうしない人間を裁判官のように裁くような人とされています。私は、この「悪人正機」は、人は、凡夫(自分も他人と同じでどうしようもない煩悩を持った人間)の自覚を持って初めて、他人と心が通じ合う関係が成り立つのだということを言っているように思います。だって、心が通じ合わなかったら、いくら意見が一致しても少しもうれしくないでしょう?