お金について考える
別の角度から言うと、お金というのは国家と結びついています。お金の通用力というのは、国家が担保しているわけですから。ドルは、アメリカの軍事力と経済力を背景にあれだけ大量に刷ることができているのです。だから、お金について考えることは、国について考えることになる。「お金なんていらない」という議論は、「国家なんていらない」ということにつながっていく。それはもちろん考えるに値する議論なわけですが、はたして現実に持続可能なのでしょうか。あるいは本当に日本人全体の意思を反映しているのかどうか。ぜひ皆さんの経験も踏まえて、議論しましょう。
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(二度目の投稿失礼します)
No.3で「働かざるもの食うべからず」という言葉を使いましたが、この言葉についてTomoikukaiさんが言及してくださっていたので、少しだけ補足意見を述べさせていただきます。
「人に押し付ける概念ではない」というのはその通りだと思います。
戦争を体験した世代は、つまり、身近な人を亡くし、紙幣が紙くずになるような体験をした世代は「お金なんて頼れない。人間は助け合わなくては生きていけない」という実感を持っていたのではないかと思うのです。しかし私たちが同じレベルでそれを実感することは難しい。
しかし、例えば自動的にお金が手に入るよう働き方を
すべての人間が選んだときに、(不可能ではありますが)
それの善悪は別としても、経済、お金が持っている前向きな機能は失われている気がします。
結果的にそういう志を抱かない、抱くこと自体が難しい世の中になっているのだから、その動機に頼らない、違うしくみでお金と労働と幸福がうまく回る社会を作ることが大事なんじゃないかと思います。
「お金のしくみが必要」という考えは、私の中では
「人間は助け合い、関わりあうことなくしては生きていけない」ということを効率化した「結果」に思えます。
しかし、「お金を持っていた方が効率的に経済活動ができる=人と関わり生きていくことができるが、お金を持っていなくても経済活動ができる=人と関わり生きていくことができる」ということを、完全に忘れかけているので、それをできれば体で分かりたい。
で、最近の日本は震災が起こるまでは「人間は助け合い、関わりあうことなくしては生きていけない」という考えがなくなってたと思うのです。
「働かざるもの食うべからず」という考えは、この「人間は助け合い、関わりあうことなくしては生きていけない」ということを体で分かったあとに来る自分に対する教訓なのかなと思います。
そういう意味では、日本は今、Tomoikukaiさんのおっしゃるようにすごろくで「3コマ戻る」ように、スタートラインにもう一度立たされているのかなと。そのときに、利他主義を上から教えるのではなくて、できれば「しくみ」として作りたい。「宗教」という飛び道具がないので、難しいところだと思うのですが。
くどくて恐縮です。脱線になっていたらすみません。