お金について考える
最近はよく「お金なんていらない」といったことが言われています。お金よりも大事なのは、人とのつながりであるという議論をよく見聞きします。確かにインターネットの普及によって、人と人の「つながり」そのものがセーフティネットになる可能性は出てきています。しかし、ご本人から聞きましたが、湯浅誠さんが立ち上げた「パーソナル・サポートサービス」(※)も、内閣府の予算がついているからこそ、実現した制度だそうです。「新しい公共」を作り、運営していくにも、やはりお金が無ければ難しいというのも、一面の真実だと思います。
別の角度から言うと、お金というのは国家と結びついています。お金の通用力というのは、国家が担保しているわけですから。ドルは、アメリカの軍事力と経済力を背景にあれだけ大量に刷ることができているのです。だから、お金について考えることは、国について考えることになる。「お金なんていらない」という議論は、「国家なんていらない」ということにつながっていく。それはもちろん考えるに値する議論なわけですが、はたして現実に持続可能なのでしょうか。あるいは本当に日本人全体の意思を反映しているのかどうか。ぜひ皆さんの経験も踏まえて、議論しましょう。
※「パーソナル・サポーター」が、生活保護や障害福祉、医療保険、介護保険、雇用保険などの専門知識を生かし、利用者にマン・ツー・マンで寄り添いながら、継続的に相談に乗る制度
別の角度から言うと、お金というのは国家と結びついています。お金の通用力というのは、国家が担保しているわけですから。ドルは、アメリカの軍事力と経済力を背景にあれだけ大量に刷ることができているのです。だから、お金について考えることは、国について考えることになる。「お金なんていらない」という議論は、「国家なんていらない」ということにつながっていく。それはもちろん考えるに値する議論なわけですが、はたして現実に持続可能なのでしょうか。あるいは本当に日本人全体の意思を反映しているのかどうか。ぜひ皆さんの経験も踏まえて、議論しましょう。
※「パーソナル・サポーター」が、生活保護や障害福祉、医療保険、介護保険、雇用保険などの専門知識を生かし、利用者にマン・ツー・マンで寄り添いながら、継続的に相談に乗る制度
GNPを上げるための国の政策か、企業がアメリカ文化を後追い導入した影響なのか、社会福祉の充実なのか私には解りませんが、戦後日本は、古来の隣組の相互扶助の体制から、消費社会へと変貌を遂げてきています。
個人的な経験則ですが、戦後食べる事に困りお金を大事に貯金している親世代、食べるのに不自由したことがなく、電子マネー等を活用している私達、幼い時から遊ぶのさえ有料の施設に親しんでいる子供達と、段々お金との距離が近く、扱う時期が早くなり、子供達に到っては消費者として生まれてきたかのようにお金との親和性が高いと感じます。
それがモラルハザードを起しているのですよね。
私達はどうしたら良いのでしょうか。
最近私は、お金を使って商品を買った後には、爽快感と充実感と少しの後ろめたさというか寂しさを感じます。それはお金を支払い、良質のサービスを受け取っても、それは店員さんがお金の対価として提示した商品であり、私個人への敬意ではないことへのさみしさだと思います。
人に喜んでもらうこと、存在を認めてもらうことが人としての幸せの一つであるならば、お金を使うことにより得られるリスペクトは擬似の敬意であり、お金を身体化するほど、それを自分への敬意を誤認してしまい、それを生じさせてくれるお金への依存を増加させてしまうのではないかと思います。
対人関係から得られる感謝の表現は、消費者として得られる表現を上回るでしょう。でもそういう無償の相互扶助のグループはどうやって立ち上げればいいのでしょうか。私には近所となるべく仲良くすることぐらいしか解らない。