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お金について考える

最近はよく「お金なんていらない」といったことが言われています。お金よりも大事なのは、人とのつながりであるという議論をよく見聞きします。確かにインターネットの普及によって、人と人の「つながり」そのものがセーフティネットになる可能性は出てきています。しかし、ご本人から聞きましたが、湯浅誠さんが立ち上げた「パーソナル・サポートサービス」(※)も、内閣府の予算がついているからこそ、実現した制度だそうです。「新しい公共」を作り、運営していくにも、やはりお金が無ければ難しいというのも、一面の真実だと思います。

別の角度から言うと、お金というのは国家と結びついています。お金の通用力というのは、国家が担保しているわけですから。ドルは、アメリカの軍事力と経済力を背景にあれだけ大量に刷ることができているのです。だから、お金について考えることは、国について考えることになる。「お金なんていらない」という議論は、「国家なんていらない」ということにつながっていく。それはもちろん考えるに値する議論なわけですが、はたして現実に持続可能なのでしょうか。あるいは本当に日本人全体の意思を反映しているのかどうか。ぜひ皆さんの経験も踏まえて、議論しましょう。

※「パーソナル・サポーター」が、生活保護や障害福祉、医療保険、介護保険、雇用保険などの専門知識を生かし、利用者にマン・ツー・マンで寄り添いながら、継続的に相談に乗る制度

NO.10   Tomoikukai 2012/08/15 13:58:48 合計 5pt.

Ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country.

1961年1月20日、若き、ケネディ大統領が、就任演説の中でアメリカ国民に呼びかけた最も印象深い一節です。多分この部分が、後の大統領、特に、クリントンやオバマ大統領の就任演説や、政治哲学に大きな影響を与えたのではないかと思われます。ケネディ大統領は、演説の中の、このたった一節があったが故に伝説になったといっても過言ではないと思います。

しかし、これを、もし、日本の首相が就任演説で使ったとしたらどうでしょう? 「国民の皆さんは、国が皆さんに何ができるかと思うのではなく、皆さんが国に何ができるかをお考えいただきたい」などと発言したら、野党は勿論、与党や、マスコミ総動員で,非難の大合唱が巻き起こること間違いなしです。国民も当然のごとくそれに続きます。首相は、あっという間に孤立無援となってしまうでしょう。

また、私は以前、青年海外協力隊の一員として、バングラデシュに赴任したのですが、赴任して、ひと月あまりで、ダッカ日航機ハイジャック事件が起きました。その時日本政府は、「ひと一人の命は地球より思い」という「迷言」を残して、600万ドルの身代金を払うなど、犯人の要求には、すべて応じてしまいました。その後、模倣犯が続いたことは、いうまでもありません。このとき言われたのが、「日本の常識、世界の非常識」という言葉で、それからの日本の外交はこの言葉の通りを歩むことになりました。私は未だに、あの時の言葉の意味が分かりません。本当にひと一人の命と地球を引き換えにしてもいいと思っていたのでしょうか。これは単に、結果責任を逃れる為に、言い繕った言葉ではなかったのだろうかと思わずにはいられません。

これらのことは、日本の政治家というものは、あるいは指導者と言われる人達は、首相も含めて、大所高所にたった政策随行者というよりは、ある特定団体や地域の、利益(既得権)代表者にすぎないということを政治家自身も認め、有権者もそれを当然のことと思っているということを物語っていないでしょうか? 実際、いつの選挙でも、選挙民に対して、その候補者がいかにその地域に利益をもたらすことができるかが重大な争点になっているようです。そして、日本の将来を考えて、必ずしも目の前に結果が現れないような政策を表明する候補者は出てこないし、出たとしても、当選するみこみは全くないといっていいと思います。そして、国家予算に政策実行の余裕がなく、借金が膨大にふくれあがってしまった今、このまま、予算の分捕り合戦を続けていたら、日本は、早晩、空中分解してしまうということが、誰の目にも明らかになってきました。

そんな中、今度の衆議院選挙が行われようとしています。その時がくるまで、あと何ヶ月あるか解りませんが、今度の選挙こそ、ケネディ大統領が言ったように、私たちは、日本の将来の為に、何を我慢して、何を実現しようとするのかを、私たち自身の頭で考えなくてはならない時なのだと思います。つまり、この国のお金の流れを、自分自身の既得権や損得を離れて、その枠組みを決定することに積極的に関わらなければいけないのだと思います。私たちは、日本国民であるというだけで、多くの既得権を持ってしまっています。国がつぶれてしまいかねない今、私たちはこの既得権さえも、見直す視点が要求されていると言っていいでしょう。

国や、地方の自治体において、ある政策を実現させようとすると、事業計画を立てて、それに対して、予算を配分していくという手法が一般的ですが、改革時で前例のない政策は、実行しながら必要な資金を獲得していくという手法も考えられるのではないかと思います。そうやって、大まかに予算を確保しておいて、余ったら返すというやり方は、少ないお金をより効果的に使える方法になりうると思います。

そういう枠組みで、今後のお金の流れを考えてみると、今後の政治の仕組みを変えるには、まず、国民の、生存権以外の既得権は一度ご破算にしたところから考えてみるのが最も有効な方法であると思います。それにはより単純化した社会保障である、ベーシックインカムの考え方を取り入れるのが、日本人として、最も受け入れやすい方法ではないかと思えます。もしこの制度を導入することができたら、後の予算配分は、今ある既得権のことをほとんど考えることなく、本当に必要な部分のみに有効的に割り振ることができると思います。例え、会社が倒産して、職がなくなっても、少なくとも家族が路頭に迷うことだけはなくなります。つまり、仕事の流動性が、圧倒的に増すことになります。

そういう基盤が作られたとして、こんどは、どこに限られた予算を割り振るかということですが、それは、誰もが考える通り、教育しかないと思います。これからますますグローバル化していく世界の中で、日本が生き残る為には、国民一人一人がそのことを理解し、世界に互していけるだけの人材を作らなければならないことは誰の目にも明らかなことだと思います。それには、今の教育制度ではとても対応しきれないことも、だんだんとはっきりしてきました。

今、グローバルに通用する人材とは、論理的なものの考え方ができて、英語が話せる。そして、インターネットに精通しているということが挙げられます。そして、これらの一つ一つは教育の成果として獲得できる能力です。しかもその能力の獲得は、アブソーベント・エイジ と呼ばれるゼロ才から七才までに、獲得できれば、最も効率よく、しかも深みのある能力となります。それに、利他心の基となる思いやりの心も、この時期に形成されます。しかし、今の教育制度は、ここのところを全く外しています。アブソーベント・エイジの時期を外せば、教育効果は、極端に落ちるし、初期教育の失敗を、小中学校で取り戻そうとしても不可能に近い。今の、学校で起きている、いじめや学級崩壊の問題は、この、アブソーベント・エイジ の教育をないがしろにしたところから当然に起こってきた結果と見ることができるでしょう。逆に、この時期の教育がうまくいけば、後は、放っておいても、自分の興味に従って、いろんなことにチャレンジする子が出来上がってきます。いま、各分野で、若くから活躍している人達は、ほとんど例外なく、この、初期教育の成功例ではないかと思われます。

初期教育の大切さは、何も、私が言い始めたことではなく、昔から誰もが知っていることです。今でも、多くの研究機関で、教育学、心理学、語学の中(ただ、バイリンガル教育については、日本では、ほとんど研究されていないようであるが)で研究されていると思われますが、その研究成果が教育の現場には全く反映されないのは、学校も含めた、教育産業における既得権の壁のせいではないかと思われます。つまり、今までやってきたことを少しでもかえようとすると、多くの人の利害がぶつかり合ってしまい、結局挫折してしまうということなのだと思われます。しかし、今、教育は全く違う理念の基に再構築されなければならない時だと思います。これも、一度すべての既得権を度外視したところから、見直す必要があると思われます。まず、第一義的に考えなければいけないのは、アブソーベント・エイジの教育をいかに成功させるかということであろうと思われます。

国のお金をどう使うかに焦点を当てて書いてきました。今までの政治は、それぞれの既得権を基本として、政策や予算の配分がなされてきました。しかし、今日のグローバル化の中で利己的なものの考え方からお金を使うというやり方では、どんな政策も行き詰まりが見えています。これからは、広く意見を集めながらも、日本の将来を見据えて、大所高所にたった政策の随行が求められます。

折しも、私の地方では、月遅れのお盆の最中です。お盆とは、自己中心に陥ってしまった人が、死んだ後、逆さつり地獄(ウラバーナ)で苦しみ、それを知った子孫が利他の行をしてそれを救い出すという故事に因んだ行事だそうですが、

Ask what you can do for your country.

は、まさに利他の行と言えそうです。