トップ 書籍一覧 メルマガ一覧 ご利用ガイド サロン・通信講座

お金について考える

最近はよく「お金なんていらない」といったことが言われています。お金よりも大事なのは、人とのつながりであるという議論をよく見聞きします。確かにインターネットの普及によって、人と人の「つながり」そのものがセーフティネットになる可能性は出てきています。しかし、ご本人から聞きましたが、湯浅誠さんが立ち上げた「パーソナル・サポートサービス」(※)も、内閣府の予算がついているからこそ、実現した制度だそうです。「新しい公共」を作り、運営していくにも、やはりお金が無ければ難しいというのも、一面の真実だと思います。

別の角度から言うと、お金というのは国家と結びついています。お金の通用力というのは、国家が担保しているわけですから。ドルは、アメリカの軍事力と経済力を背景にあれだけ大量に刷ることができているのです。だから、お金について考えることは、国について考えることになる。「お金なんていらない」という議論は、「国家なんていらない」ということにつながっていく。それはもちろん考えるに値する議論なわけですが、はたして現実に持続可能なのでしょうか。あるいは本当に日本人全体の意思を反映しているのかどうか。ぜひ皆さんの経験も踏まえて、議論しましょう。

※「パーソナル・サポーター」が、生活保護や障害福祉、医療保険、介護保険、雇用保険などの専門知識を生かし、利用者にマン・ツー・マンで寄り添いながら、継続的に相談に乗る制度

NO.12   hakufoundation 2012/08/16 01:11:24 合計 8pt.

論点がずれていたら申し訳ないのですが、
個人的にはお金を得る手段というのが、
社会的な労働でしか得られないということに問題がある様な気がします。よく言われる話ですが、主婦(家事を行うこと)の対価はいくらでしょう?

この対価は家の大きさの違いであったり、服の多さであったり、単純に主人の稼ぎ次第などなどの基準の違いでバラバラになる訳です。
手間に比例して賃金の額が変わる訳でなく、現実的に言えば主人の稼ぎによって変わる訳です。
そして、家庭内の事であるから、この労働の対価というのはとても曖昧になる訳です。

と、例として家事について書いてみましたが、様々なことがらでこのような曖昧さがあるように思います。お茶汲み労働の賃金は?コピーの賃金は?
なんて、そんなことを言い出すと切りがないですし、それに明確に対価をつけるとなんだかとってもくだらない世の中になってしまいそうな気がします。

しかしながら、お茶汲みでお金を要求する様な寂しい人は、日本にはいないことと信じていますが、そんなとっても些細な事柄にまで、対価がつく様な時代になってしまったように思います。

『家事の対価はいくらでしょう?』

こんな問題が出る様になったのはいつからなのでしょうか?
昔の言い方で言えば、家事は家を守る嫁の役目というのが当然で、そんな疑問は思っても見なかった様な気がします。
(すべての旦那がそれに心底感謝していたかは存じ上げませんが。。。)
各々が各々の役目を担い、そして時には助け合っていたように私は思っています。
※女性蔑視ではありませんのでご理解下さい。

『金で買えないものはない』ではありませんが、
お金というものを意識しすぎているのが現代の時代の様に思います。
それだけ、お金というのは残念ながら現代を生きる上では、重要になってしまったということなのかもしれませんね。

しかしながら、個人的には坂口恭平さんではありませんが、態度経済の様な物々交換、必要と必要が求め合う様な相互関係が、お金ではなく、流通すれば良いな。なんて思ってしまいます。

でも、それって以外と簡単な事である様な気がします。家事の対価に関しては、心のそこから感謝してみたり、場合によっては、嫁の喜ぶ事を実行にうつす。もしかしたら、その表現方法もお金だけになってしまうのかもしれませんが、例えば手紙を書いてみるなど、そういったコミュニケーションが、お互いの対価として流通すればとっても素敵な事だと思うんですけどね。

結局、お金を使ってしか様々な事が表現出来なくなってしまったということに問題がある様な気がします。社会的な労働以外でも、人を喜ばせるツール(例えば花を摘むとか)を得る事は出来る訳ですよね。

まとまりが無くすいません。
思ったままを書かせて頂きました。

古賀賢司
@hakufoundation