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領土問題について考える

僕は基本的に、ありとあらゆる主権国家の間には領土問題があると思っています。動物学では、二つのグループがあれば、必ずオーバーラップゾーンというものがあって、そこでは活動がかぶる。そこでどうしても争いが生まれるという研究があるそうですが、人間も同じだと考えています。

ただ一方で、領土問題が先鋭化しやすいのは、両当事国の民主化度が低い時だという研究もあるようです。なぜそうなるかといえば、民主主義とは、自分と対立する意見の持ち主と議論をしていくプロセスそのものを指すからです。そして、今回の尖閣諸島の問題、あるいは竹島の問題を見るかぎり、やはり、中国、韓国の民主的な成熟度は、残念ながら低いんだと思います(中国は民主主義国家ではないので、当然といえば当然ですが)。

しかし、相手国の成熟度について文句を言っていても仕方がありません。このような状況の中で、いったい日本としては、どう振る舞うべきなのか。

今回の領土紛争が、東アジア地域の国のあり方や国際関係のあり方に非常に大きな示唆を与えていることは事実です。さまざまな立場の方がいらっしゃると思いますが、ぜひみなさんの意見をお聞かせください。

ちょっと書きにくいかもしれませんが、在日韓国人や在日中国人の方のご意見もぜひお伺いしたいと思います。もしこの掲示板を読まれている方がいらっしゃいましたら、お待ちしております。

NO.3   Tomoikukai 2012/08/22 19:53:46 合計 11pt.

宇宙飛行士毛利衛さんの「宇宙からは国境線は見えなかった」という言葉に、多くの日本人が共感しながら、領土問題が持ち上がるたびに、突然に愛国者となって、外国人(主にアジア人)嫌いを増幅させることに、あいも変わらぬ日本人の二重性を感じさせられます。

私個人にとって、国境とは、無用の長物以上に、単に厄介者でしかありません。アジアを旅行中、陸路で国境線を越える度感じる、あの、犯罪者にでもなったかのように扱われる情けなさ。パスポートをなくした時の困惑と、その後の手続きの煩わしさ。日本へ入国する為のビザがとれずにすぐそこまで来ている友達と会えない無念さ。一歩日本の外へ飛び出せば、国境があることで、気軽に外国の友達と交流できない事情が山ほど出てきます。

一方、ヨーロッパの中では、スウェーデン人とオランダ人の夫婦がデンマークの田舎に仲良く住んでいたり、国境を越える時は、電車の車掌さん(入管職員?)がパスポートを確認するだけというところもあり、一度に六カ国を回る旅でも、ほとんど国境越えの煩雑さを経験することはありませんでした。

いま、TPP へ参加等、日本のグローバル化を推進することが叫ばれていますが、グローバル化とは、そもそも、国境線の意味がなくなり、人と人とが、考え方や文化の違いを乗り越えて、理解し合う関係を築くということを意味しているように思います。そういう視点に立てば、竹島問題も、尖閣列島の問題も、日本が本当の意味で、韓国や中国とまだまだ理解し合える仲にはなっていないということを証明しているのだと思います。つまり、この三国の国際交流というものは、物流や経済、その他物質的、表面的な交流はあっても、精神的な交流はほとんどなされていないということになるのではないでしょうか。

茂木さんは、領土問題が先鋭化するのは、民主主義の成熟度の問題であり、日本と違って、中国や韓国には、それは無いと断じておられますが、それは果たしてそうなのでしょうか?

私は、韓国や中国の人たちとは、政治の問題で話をしたことはあまり無いので、韓国や中国に民主主義があるのか、また、それが成熟したものかどうかを議論できる材料を持っていません。しかしながら、日本には成熟した民主主義があるかのように言われることに対しては、どうしても同意することはできません。茂木さんは、民主主義とは、自分と対立する意見の持ち主と議論していくプロセスそのものだと言われますが、そのプロセスには、違った意見や文化を理解していくことも当然含まれなければならないと思います。そういった議論を日本人ができるかというと、わたくしは、全くできないと言わないまでも少なくとも得意ではないと思います。以下にその理由を述べます。

日本人は、明治以来、西洋文化を受け入れ、政治、教育、産業、法律、その他ほとんどの社会システムを模倣し、近代化を成し遂げてきました。民主主義システムもその一つです。しかしながら、この民主主義による問題解決、または、政策遂行にとって、必須のものは、その社会を構成する個の独立と議論する能力の獲得です。明治維新の時、福沢諭吉や、夏目漱石はそのことを何よりも理解し、どれだけ人々を説得しようと心を砕いたことでしょう。しかしながら、それからの全体主義国家日本には、個の独立や、議論する能力の獲得に心を向ける余裕はありませんでした。子供が、ひとと同じ行動をとることを求められ、理屈を言うのをいやがられるようになったのもこの頃からでしょう。例えば、金沢には「理屈ななー」という褒め言葉があり、昔は、物事や、話にちゃんと筋道が通っていることが賞賛されていたことを伺わせるものです(金沢えらい!)。この、個の独立や議論を深める能力を獲得していなかったことが、戦後思いがけなく与えられた、民主化のチャンスに日本の民主主義が成熟することができなかった大きな理由だと思われます。そのことが、教育の偏差値依存を招き、全国一律の金太郎アメ教育を喜んで受け入れてしまったのだと思います。その教育の結果生み出されたひとが、今、日本国民のほとんどを占めています。こういう訳で、そんな今の日本で、真の意味で民主主義的議論によって、いろんな問題の解決を図るのは、少しく無理があると思うのです。

それでは、今からでも、少しでも、民主主義の質を高めていく方策は無いのでしょうか? はっきり言って、大人が変わるのは至難の業だと言わざるを得ません。個が独立し、正しい議論の能力を獲得する為には、どうしても初期教育に焦点を充てざるを得ないようです。

三十年ほど前、私どもの家の隣にオランダ人と日本人の夫婦が住み着き、二人のお子さんが生まれました。その、長男の太郎君が、6才になって小学校へ入ろうという時になって、橋本・コリーナ一家はオーストラリアに永住権を得て、引っ越していきました。その理由をコリーナさんに尋ねたところ、日本の学校では、ひとと同じになることを要求されるが、彼女の考えでは、一人一人が個人として、独立した考えを持つことができるように育てたいということでした。確かに彼女がしていた小さい時からの躾も個性あふれるものだったと思います。ほかに何人か西洋文化で育ったお母さんがたにもお話をうかがう機会がありましたが、躾に個性を重んじる点では共通していたように思います。このことは、個の独立や、正しく議論する能力は、初期教育でこそ成し遂げられるということを意味しているのではないでしょうか。

ちなみに、個の独立で言えば、日本では、「誰々ちゃんができるのになんであなたはできないの」と叱ってみたり、「誰々ちゃんが持ってるから私も買って」と言われてすぐ買ってやるとか、ひとと同じことをよしとするが、西洋では、自分がやりたいことは、ちゃんと理由を言って納得できるものしかやらせてもらえないということが大きな違いだろうと思います。

それから、正しい議論をする能力という点では、植田十三・妻鳥千鶴子著「英語で意見を述べる」の中にしてはいけないアーギュメントの原則というのがあったので書き出してみようと思います。

アーギュメントをしていく上で避けるべき8つの "argument fallacies" があります。

1. Hasty Generalization: a fallacy that makes claims based on insufficient or unrepresentative examples (不十分な例で主張をサポートする誤り)

2. Post Hoc Ergo Proper Hoc: a chronological fallacy that says a prior event caused a subsequent event (時間の前後関係を因果関係と混同した虚位の論法)

3. Slippery Slope: a fallacy of causation that says one action inevitably sets a chain of events in motion (エスカレート論法)

4. Red Herring: a fallacy that introduce irrelevant issues to deflect attention from the subject under discussion (ひとの注意をそらす論法)

5. Appeal to Tradition: a fallacy that opposes change by arguing that old ways are superior to new ways (伝統を重視する論法)

6. False Dilemma: a fallacy that confronts listeners with two choices when,in reality, more options exist (偽りのジレンマ論法)

7. Bandwagon: a fallacy that determines truth,goodness, or wisdom by popular opinion (大衆意見による正当化論法)

8. Ad Hominem: a fallacy that argues listeners to reject an idea because of the allegedly poor character or the person voicing it (人格攻撃論法)

どうでしょう? 私など日本人と議論する時は、必ずと言っていいほど、7番8番の意見を聞かされて前に進めないといったことが起ります。ネトウヨの匿名ツイッターも時には見ることもあるのですが、正に、してはならないアーギュメントのオンパレードのようです。

この八つは、言葉で言うと、議論する時のルール、文法のようなものです。大きくなってからマスターするのでは、本当のところは理解できないし、議論がぎこちなくなってしまうのは、大きくなってから英語をマスターしても、なかなかスムーズにはしゃべられないのと似ています。これらのことは、西洋では、言葉同様、体でマスターして、こどもたちに、躾としてしみ込ませているようです。

ということで、これらのことを子供達が体でマスターすることができて、初めて日本の民主主義も成熟の域に至るということができるのではないかと思われます。そして、この時、初めて、近隣諸国との領土問題が、領土問題のまま、問題にならない時が来るのではないかと思われます。 ・・・・・えっ そんなに待てないって?なあに地球の時間に比べたら、20年なんてほんの一瞬ですよね。北陸新幹線なんか40年待ってるひともいるよ。