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「誠実さ」について考える

先日、連続ツイートで紹介しましたが、僕には「誠実さの法則」というものがあります。

たとえば、最近の中国や韓国の日本へふるまいは、日本人からすると腹を立てざるを得ないものがあります。でも、現代の脳科学の標準的な見解によれば、脳の振る舞いにおいて、「自由意志」(freewill)は存在しません。国の行動というのは、それぞれの国の人々の認識や行動の集合体ですから、中国や韓国のふるまいも、ある意味で「必然」として起こったこととなる。

では、僕ら日本人は黙っているしかないのか。そこで「誠実さの法則」が出てきます。たとえ、相手の振るまいに自由意志がなく、今とは違った行動が期待できないとしても、それに対して「腹が立っている」という感情を伝えることで、相手が今後行動する時のパラメータが、劇的ではないにせよ徐々に変わるかもしれないことに期待する。これが、「誠実さの法則」です。

他人に対してあまり期待しない、しかし自分の感情は伝える。これこそが、自由意志が存在しない世界観と整合性のある、誠実さの法則だと思います。

みなさんも日々を生きる中で、それぞれ「誠実さの法則」があると思います。

ビジネスにおける「誠実さの法則」、家族のなかでの「誠実さの法則」、友人との「誠実さの法則」……。この「誠実さとは何か」を突き詰めることは、人間同士のコミュニケーションを突き詰めることになると思います。たくさんのご意見お待ちしています。

NO.2   Tomoikukai 2012/09/05 18:26:32 合計 22pt.

日本の裁判制度には、裁判外紛争解決手段として、調停制度があります。日本は、明治時代に、フランス、ドイツ方式の裁判制度を導入した為に、裁判に於いては、裁判官が法律を厳格に適用する、シビルロー方式の裁判制度となりました。その為、裁判所の裁定は時として、世間常識とは異なることがあります。その問題を少しでも和らげる為に、民事と家事では、当事者同士で話し合って解決ができないかどうかを、調停という場を設けて検討します。それでも合意できない時には、裁判へ移行することもありますし、勿論離婚調停以外は最初から裁判ということもあり得ます。それに対して、アメリカの法体系は、コモンローという方式で、例え刑事裁判だとしても、被告と一体になった弁護士と、検察官の弁論を聞いてから、一般の市民から選ばれた陪審員によって評決が下されます。これは、大胆にいってしまえば、アメリカ文化では、裁判制度そのものの中に、調停の要素が含まれていると言っていいのではないでしょうか。つまり、どんな紛争も、弁論を通じて解決を図ろうという姿勢です。

日本人は、明治以来シビルローのもと、国家の全体主義指向も相まって、法律を守るのが国民の唯一の使命であるかのように突っ走ってきました、法律だけではなく、あらゆる規則を含めてです(校則を見よ!)。仕事ぶりや、時間厳守にもそのことが現れています。私は、ある保育園の卒園式に来賓として出席したことがあるのですが、園児が隊列を組み、整然として入場してきたのを見て、私以外の来賓の人達は感に堪えた面持ちがしたらしく、後で、園長先生をそのことで大いにほめていました。明治以来の日本の文化では、規則を守ることや目上の人のいうことを聞くことと、「誠実であること」とは、どうも同じことと捉えられているような気がしています。規則を守らなければならないということでは、時には(しばしば?)天下の国会においてさえ、つまらない規則違反を取り上げて、鬼の首でもとったように非難してみたり、そのことを理由に審議拒否してみたり、笑ってしまうのは、そのことで政局が大きく動いたりもしてしまいます。一方では、自衛隊が憲法違反であることは、小学生でも理解できるのに、その問題を取り上げて、憲法や法律を修正してみせる能力が全くないにも関わらずです。日本でのシビルローの導入は、どうやら、木を見て森を見ずと言った文化を醸成してしまったような気がします。そして、国民の側としては、自分たちが国を構成しているにもかかわらず、何か問題が起きると、すべての責任は国にあると思うらしく、国やその代表者を一方的に非難すると言った傾向が最近は特に目につくようになりました。(自分たちの問題なんだよ!)

戦後GHQは、憲法や法律を強制的に改変させましたが、明治以来維持してきた、シビルロー方式をコモンロー方式に変更させることはできませんでした。多分、そのときの日本の指導者や、法律専門家にその能力が無かったからだと思われます。そのことで、戦後、日本ではいろんな弊害が出てきました。一番大きいのは、家族の崩壊です。例えば、遺産を相続する時、話し合いを基本とした時は、遺言が必要となりますが、シビルローに慣れた日本人は、法律通りの配分を当然のことと思ってしまいます(死んだ人が、話し合いに加わるには、遺言しか無いのです)。これでは、兄弟の仲が悪くなり、話し合えば必ず喧嘩になること請け合いです。学校へいかない子供は許されないし、会社をすぐ辞めたり、潰したりしたら信用は完全に失墜します。公務員が飲酒運転で捕まれば、幸せだった家庭も完全に崩壊。対話無しに、規則や法律を厳格に適用すれば、当然のようにこういうことが起こってきます。いつのまにか法律は、人々の暮らしを守る働きから、人々に疑心暗鬼を起こさせ、密告までさせて、われわれを不幸の奈落に落とし込む存在となってしまっているとは思いませんか?

我々は今、規則を守ったり、上司や先輩のいうことを聞くことが「誠実であること」という観念から抜け出して、一つ一つの規則に、また、先生や諸先輩のいうことに理解しつつも、誠実に疑問を投げかける態度を身につけて行かなければならない時だと思います。つまり、「誠実の法則」があるとすると、それは、話し合いや議論に於いて、自分の誠実な心がひとの心に届いて、そして、それに答えて、ひとの誠実な心が自分の心の中に届いて、初めて問題の解決が見えてくるものなのだと思うのです。例えば、考えてみてください、ほかの多くの東南アジアの国々のように、ハーバードで同じくサンデル教授の講義を聴いた若者同士が寮で意気投合して、それぞれの国の夢と未来を語り合ったとします。それらの人達が国家元首となってお互いの国に横たわる難問を、協力して解決するのは容易に想像できることだと思いませんか? 李明博大統領と野田首相が親友だったら、国境の問題も随分簡単に解決しそうですよね。

調停に於いては、調停委員が対立する当事者それぞれの心の中に飛び込みます。そして、双方からの信頼が得られて初めて、和解、あるいは合意の可能性が見えてきます。昔は、夫婦喧嘩していても、両方の心を理解してくれる大家さんなんかがいて、何度でも喧嘩して、何度でも仲直りすることができたのですが、今は、火に油を注ぐような人が多くって、仲に入ってもらうと、なおさら仲が悪くなるようです。政治家の皆さん、是非、人間関係の研修には、裁判所の調停委員会を検討してみてください(ちょっと本気)。